'98/1/22
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マツダ相談役、山本健一さん(75)。「ミスター・ロータリー」とも呼ばれる。車づくり一筋に生きたエンジニアの半生は、自動車産業にとどまらず、「技術立国」日本の歩みをも映し出す。原爆投下・敗戦の翌年、広島に本社を置く旧東洋工業に入社し、世界で初めてロータリーエンジン(RE)を商品化。後には社長として米国での生産を決断した。その間、会社は石油危機を引き金に存亡のふちに立ち、今は米フォード・モーターの下で新たな道を踏み出した。「マツダも僕も挫折を繰り返したが、失敗を恐れず、挑戦し続けてほしい」。次世代へのメッセージを情熱込めて語る。
(「マツダの風」取材班 報道部・西本雅美)
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| 技術で金字塔、そして試練 |
| ロータリー生みの親 山本健一相談役 |
| 半世紀を語る<上> |
ローカル企業の発展 地域に地盤あったからこそ
入社したのは一九四六年。両親がいた広島に復員し、当時あった「国民酒場」に入り浸っていた。母親が心配し、知り合いの重役に頼んだのがきっかけです。入社して二年間は、三輪トラックの変速機などを組み立てていた。機械加工や鋳鍛造、組立工には旧軍関係の人が相当いましたね。
当時の三輪トラック生産は日に十台ほど。材料がなく、精油所から不要になったタンクを買って来て、鋼材として使ったりした。勉強のために設計図を写したり、労働争議が激しかった職場大会で発言したりしているうち、発動機の設計主任から誘われて開発の道に入ったんです。
熊本県生まれ。父親は戦前の東洋工業で役員を務めたこともあった。旧制五高を経て四四年、東京大第一工学部機械科を繰り上げ卒業。旧海軍の戦闘機をつくっていた川西航空機に入社後、茨城県土浦の海軍第一航空廠に配属され、中尉で敗戦を迎える。実家は広島市中区。原爆で女学校を出たばかりの妹を失った。
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関東メーカーに対抗 革新的社風の中で次々開発
当時はダイハツや三菱などとの競争。それまでサイドバルブだったのを、航空機エンジンと同じ、高出力のオーバーヘッドバルブに換えた。われわれが初めてで、顧問だった海軍工廠の出身者から徹底的に設計を勉強した。やがて社長の松田恒次さんは「ピラミッド・ビジョン」、つまり国民の所得水準の向上に合わせて三輪車から軽乗用車、大衆車を開発していくという計画を打ち出しました。 社員も燃えた。軽乗用車「R360クーペ」には、それまで鉄だったサスペンション(懸架装置)に、ゴムを使った。四人で乗るにはいいが、一人で運転すると固くてしりが痛い。そこで先進諸国も手掛けていなかった、ラバーサスペンション技術を開発したんです。 恒次さんら経営者たちは根っからの技術者で、モノづくりのベンチャー精神にあふれていた。「関東のメーカーに対抗するには、個性的、革新的な技術が要る」という信念を持っていた。それが社風をつくっていった。ロータリーエンジンとの出合いも、そうした中で起こったわけだ。 一九二〇年に広島市中区で創業したマツダは、三一年から広島県安芸郡府中町に本社を移し、三輪トラックの生産を始める。爆心地から東へ約五キロ離れていたため原爆による工場倒壊を免れ、四五年末には生産を再開。六〇年に「R360クーペ」を発売し、総合自動車メーカーへの道を踏み出す。 指揮を執ったのが、五一年に就任した二代目社長の故松田恒次氏。日本の乗用車生産は、六〇年に対前年比一一〇%増を記録し、本格的なモータリゼーションに入る。マツダは、この年から三年 間、生産台数はトヨタ、日産をしのぎ国内第一位だったが、三輪・四輪トラックが中心だった。 |
独立保つための挑戦 社長の志に皆盛り上がった
マツダも同じ状況。六〇年代初め、欧米から乗用車の輸入自由化を迫られていた通産省は、廃案になった「特定産業振興臨時措置法案」を掲げて国内メーカーの再編に乗り出した。世間からはトヨタ、日産、いすゞの三グループになるとまで言われた。恒次さんは、いかにして独立を保つかに腐心していた。そのころ、未完成ながらREが発表されたんです。
設計部の次長だった僕は最初、REを導入すると聞いて、とんでもないと思った。レシプロエンジンは百年近い歴史がある。エンジンというのは圧力に振動、熱…と大変なんだ。レシプロの技術すら欧米に追いついていない。それなのにGMやフォードでさえやっていない、海のものと山のものとも分からないエンジンをやるという。RE研究部長を命じられたとき、内心は「社長の道楽に付き合えるか」と思ったのものです。
研究部が発足して二カ月後だったかな。僕も同席して、恒次さんが宮島の対岸にあるマツダの「迎賓館」に部品メーカーの社長たちを呼んで、「独立を保つためにREをやる。通産行政に抵抗する」とぶち上げた。みんな盛り上がりましたね。
六三年の東京モーターショーに、開発中のREを載せた「コスモスポーツ」の試作車を出した。あのワンマン経営者が、日本興業銀行や野村証券を訪ね、開発資金を得るためにぺこぺこ頭を下げるんだ。そして広島までコスモ二台を販売店に見せながら戻ったんです。
訪れる先々で恒次さんが演説をぶつんです。「世間はマツダがどこかに吸収されるというが、どこもやらないREをやる。それには金がかかる。だから今の車を売ってください」。個性的な会社にしたいという恒次さんの熱い思いに感動した。僕も真剣になりましたよ。
ピストンの往復運動を回転運動に変えるレシプロエンジンに対し、REはピストンに当たる、おむすび型のローターの回転運動で、動力を取り出す。小型、軽量、高出力。「夢のエンジン」と目されたが、実用化は専門家の間でも長い間、疑問視されていた。
マツダは、NSU・バンケル社が五九年にREを発表すると早速、技術提携を結び六三年、RE研究部を設立。部長の山本さんは四十歳。部員に「寝ても覚めてもREのことを考えろ」と奮起を求めた。山本さんも、まくら元にもノートと鉛筆を置いて、新しいエンジンの開発にひたすら取り組んだ。
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各社追った「夢のRE」 石油ショックでつるし上げ
六〇年代後半から大気汚染、車の排ガス問題が起きてきた。REは振動とともに窒素酸化物(NOx)の発生も少ない。七〇年にGMが開発に参入するとフォード、トヨタ、日産も続いた。自動車メーカーは大量生産をするため、よほどのことがない限り新しいことはやらない。保守的なんだ。しかし、当時は各社ともレシプロは行き詰まると思った。また、世界一のGMがつくるのを恐れたんでしょう。
パイオニアになったマツダは、REを武器に地盤を築きたいと、急速に搭載車種を増やしていった。ボンネットが低く、レシプロが載らない「コスモ」のようなスポーティーカーならいい。なのに、レシプロ用に開発した他の乗用車にも安易に載せていったんです。
生まれたばかりのREは、市場でもまれていない。開発陣としては信頼性、耐久性の改善に力を入れたかった。しかし、どういう車に載せるかは経営戦略であり、部長の立場では口を差し挟めない。世界の動きに揺さぶられたし、浮かれた面があったのは否めないでしょう。
米国で排ガスを規制する「マスキー法」の適用時期をめぐって七二年、環境保護局(EPA)が公聴会を開いた。マツダは「適用時期の延長を求めない」とやった。それで、七五年適用の流れが決まった。後から考えると、EPAは「小さなマツダ」を利用して、法案に抵抗していた大手メーカーを抑える手段に使ったんだな。次の年に石油ショックが起きると、今度はEPAに「REはガソリンを食い過ぎる」とやられたんです。
販売はどんどん落ち込んでいった。それで、フェニックス(不死鳥)の頭文字から「P計画」と名付け、燃費改善に取り組んだ。一年間で四〇%向上させたが、販売の不振は続いた。七五年に会社が赤字となり、「RE研究部が戦犯」と言われた。僕はつるし上げですよ。車種の選択が安易だと思っても、言える立場じゃない。つらかったね。
初のRE車は六七年に発売した「コスモスポーツ」。恒次社長が七〇年に死去すると、後を継いだ松田耕平社長の下、「ファミリア」などの主力車種にも搭載していく。対米輸出も七〇年にスタート。七三年には乗用車生産四十七万台のうち、二十四万台をRE車が占めた。
七三年十月、第四次中東戦争を機に、アラブ産油国が原油の大幅値上げに踏み切る。トヨタ、日産は生産調整に入ったが、マツダは強気の経営路線を崩さなかった。七四年には米国市場だけで八万台を超す在庫の山を抱え、経営危機に陥る。七五年は百七十三億円の赤字を出し、住友銀行が再建に乗り出す。その二年後、松田耕平社長が退陣し、山崎芳樹社長が就任。松田家三代によるオーナー経営に終止符を打つ。
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再建支えた住友の力 でも自己主張足りなかった
赤字になり、住友銀行から役員が派遣されてきた。住銀出身の役員は「REの搭載はスポーツカーに限るべきだ」と、それまでの方針を変えた。モノつくりに経営のセンスが入ったんです。
七七年の暮れにトップが変わった。あれほど「戦犯だ」とやられていたが、常務になった。翌年に出した「サバンナRX―7」は、売り出す前から予約が殺到した。米国自動車技術会に招かれて講演に行くと、有力メディアが次々に取り上げる。あの国は面白い。失敗しても巻き返すと評価し、応援するんだね。あれでREは消えなかった。消えていたら、僕もマツダにいなかったでしょう。
いろいろ言われている住友経営については、こう思う。僕が社長になる前から国際化、情報化時代に入っていた。国際的な情報収集力、分析力がなかったら、やっていけない。住友グループの力があったからマツダはここまで来た、と思っています。
ただ、住友の顔色をうかがうというか、自分たちはこう思うという姿勢、主張に欠けた面がなきにしもあらず。時代の変化に応じて意見を出し合い、挑戦する雰囲気に乏しかった。それをつくるのがトップの責任。私を含めて力足らずだったし、考えが狭かった。それが反省です。私の。
住友銀行はマツダ支援専門の融資第二部を新設し、経営の主要部門に役員を派遣。マツダは組織の改善、社員の販売出向など、身を切るような努力を経て危機を乗り越える。広島の経済界もマツダ車を購入する「バイ・マツダ運動」で協力した。「RX―7」は国内外で人気を呼び、八〇年に出た前輪駆動(FF)の「ファミリア」もヒット。生産台数はこの年初めて百万台を超え、マツダは米国での現地生産へと動き出す。
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