中国新聞社

'98/5/26

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マツダの風  世界規模で加速する自動車メーカー再編成の中、マツダは米フォードグループの一員として生き残りをかける。三十年近いマツダ、フォード両社の関係で、橋渡し役を演じたのは、マツダのメーンバンク住友銀行の元頭取で現相談役、巽外夫氏(74)である。巽氏はマツダ支援を目的に設立された融資第二部長に就任して以来、二十三年間にわたってマツダ、フォードと深くかかわってきた。中国新聞のインタビューに対して巽氏は、資本提携の舞台裏とともに、フォードがマツダ株式の過半数取得の考えを持っていたことも明かし、「マツダは、フォード抜きでは生存できない」と言い切った。
(「マツダの風取材班 経済部・宮田俊範

フォード抜きで生き残れぬ
住友銀行相談役 巽 外夫氏インタビュー
両社の橋渡し

支援確約、増資を説得

マツダとフォードの提携などについて語る巽外 ・住友銀行相談役(大阪市中央区の住友銀行本店)
巽 外夫(たつみ・そとお)

 1947年、京都大法学部を卒業し、住友銀行へ入社。審査第一部長、融資部長を経て75年、常務融資第二部長としてマツダを担当。専務、副頭取を歴任し87年10月から93年6月まで頭取。96年6月からマツダ取締役も務める。経団連常任理事、関経連常任理事。

 一九九六年五月、フォードがマツダの持ち株比率を引き上げた。前年(九五年)の秋、東京モーターショー会場のホテルで、アレックス・トロットマン会長とウェイン・ブッカー副会長に会った。その席で初めて増資の話をしたんです。

 フォード側は「マツダの方に一緒にやろうという姿勢がない。経営状態はものすごく悪い。いつまでも手を入れるわけにはいかない」と言い、そのまま二五%の株式を持ち続けてくれるかどうか、難しい状況になっていましたよ。私は「それは困る。どうしても頼む。フォードなしでマツダは生存できない」と返答したんです。「住友銀行は、本当にマツダを支えてくれるか」と聞かれたんで、「する」と答えましたよ。

 財務調査をして決めよう、ということになり、ディーラーまで含めて三カ月ぐらい調査した。いろんな問題点も出たが、マツダにはいい技術がある。フォードにもプラスになる、という確信を持ちました。その間にマツダの経営状況が一層、深刻になってきた。フォード内に増資を疑問視する声も出てきた。数カ月の交渉の末、やっと「資本を増やし、経営を全面的に支えましょう」と返事をもらった。私の頭には、初めから、三三・四%という数字がありました。

 七九年にフォードがマツダに資本参加した時も、私がお願いに行った。忘れもしない七七年七月二十日、デトロイトのフォード本社を初めて訪ねた。マツダは第一次石油ショックによって、単独で生き残っていくのは難しい状況にありました。

 フォードでは副会長、国際担当副社長の二人と会談した。「マツダは七二年、われわれの資本提携の申し入れを断った」と言われ、断られた。それで帰るわけにはいきません。朝九時から夕方の五時まで粘って、「マツダへ望むことを手紙に書いて空港まで届ける。それができるなら、再び会おう」という返事をもらった。私は翌朝の飛行機で帰国することになっていたんです。

 約束通り、フォードの人が手紙を持って来た。まずマツダで変速機をつくってもらいたい。それから小型トラックの受け入れを拡大していく、という内容だった。住友銀行がマツダを支えるという保証も求められた。もう一つ条件としてあったのが、マツダが手掛けていなかった前輪駆動車。「世界のすう勢になる」と言われた。マツダは消極的だったが、何とかやってもらった。変速機は年間二十万台ぐらい発注され、マツダの収益に貢献しました。

 最初の資本提携の時、トヨタに頼んだらとか、日産自動車はどうかという声もあった。いろいろ考えましたよ。二十一世紀には日本だけでなく世界の自動車メーカーが整理、統合される。GM(ゼネラル・モーターズ)かフォードと思ったが、GMは既にいすゞと関係があった。それで、世界で最初に車を大量生産し、車の動向、すう勢を見抜く力が強いフォードに要請することを決めた。今も二十年前の判断は間違っていなかったと思っています。

住友銀行とフォードの主な動き
1969・10フォード、日産と日本自動変速機の設立に合意
70・9フォードと資本提携交渉を開始
11松田耕平社長が就任
71・3資本提携交渉のためヘンリー・フォード2世会長が来日
12フォードに小型トラックを供給開始
72・3資本提携交渉が決裂
74・12住友銀行と住友信託銀行が取締役を派遣
75・12決算で173億円の赤字を計上。住友銀行が村井勉副社長を派遣
77・12山崎芳樹社長が就任
78・6資本提携交渉を再開し、ヘンリー・フォード2世会長が来日
79・11フォードが資本参加し、株式の25%を取得
81・12フォードブランド車を販売するオートラマを設立
84・5東洋工業からマツダへ社名変更
11山本健一社長が就任
87・9米国生産会社(MMUC)が操業開始
12通産省出身の古田徳昌社長が就任
88・1MMUCでフォード車の生産開始
91・12住友銀行出身の和田淑弘社長が就任
92・6MMUCをフォードとの共同経営とし、米国合弁生産会社(AAI)へ社名変更
93・12フォードと戦略的提携関係構築に合意
94・2フォードがヘンリー・ウォレス氏ら3人を顧問として派遣
ヘンリー・ウォレス氏が副社長に就任
95・11フォードとタイ合弁生産会社(AAT)を設立
96・5フォードが持ち株比率を33・4%に引き上げ
ヘンリー・ウォレス社長が就任
12新車開発から生産までのデジタル革新(MDI)に着手
97・1オートラマがフォードセールスジャパンに社名変更
フォードと商品サイクルプラン同期化と車台共通化に基本合意
11ジェームズ・ミラー社長が就任
98・4フォード、ダイムラー・ベンツなどとの燃料電池開発に参加
フォードのアレックス・トロットマン会長が持ち株比率引き上げを示唆

世界で業界再編

過半数の出資 いつでも可能

 今、進んでいる世界の自動車業界の再編を見ていると、わが意を得たりと思っています。将来は米国のGMとフォード、日本のトヨタとホンダ、ドイツのフォルクスワーゲンとダイムラー・ベンツ、その辺が中心になっていく。日産だっていろんな努力をする。フランス、イタリアのメーカー、ドイツのBMWがどうなるか。合従連衡していくんでしょうな。うまくいかなかったが、イタリアのフィアットもフォードと合併の話が何回もあったんですよ。

 フォードは二年前の増資の時、資本の五一%を持つ腹づもりがあった。一挙にそうするのはどうかと思ったから、三分の一強にとどめてもらったんです。この前、フォードの株主総会後にアレックス・トロットマン会長が出資比率の引き上げについて言及しましたが、それは今すぐにどうこうという話ではないですよ。長期的に見て、過半数を持つことは一向に差し支えない、という意味です。フォードは、必要があれば、いつでも持ってもいい、と考えていると思います。

 フォードは、マツダがフォードと同じようになったら面白くないと思っているのは間違いないですよ。マツダらしい生き方、マツダらしい車づくりをしてほしいと。フォード一色にしたくない、という気持ちは非常に強いですよ。

 車というのは、人によって好みがいろいろある。日本人の好みもあるし、年寄りも若い人もいる。男性と女性でも違う。ただし、コストの面があるから、車台を共通にして、いろいろつくる。内臓は一緒であっても、外観はどんな風にも変えられますから。資本はフォード系列でも、何もかも同じにはしたくないんです。

 マツダは、フォードにとって単なる工場じゃないですよ。極東の立派な関係会社なんです。マツダが疲弊して、フォードだけが富むような関係は、長続きするわけがない。共に繁栄していくべきなんです。


米国式経営

採算重視が徹底 日本的風土守りたい

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フォードがマツダの経営に乗り出すことが決定。藤田雄山広島県知事(右)へあいさつする当時のヘンリー・ウォレス・マツダ副社長(中央)と和田淑弘社長(左)
(1996年4月15日、広島県庁)
 マツダの変革は、うまくいっている。良きアメリカの経営といえばいいでしょうか。

 米国式経営というと、特に金融関係では優勝劣敗が激しく、人もパッと減らすが、フォードは若干違う。一九七五年から二十年以上接してみて、従業員に対して温かみがある。全米自動車労組(UAW)との関係もうまくいっている。といって、生ぬるいわけでもない。効率的にやるんです。

 フォードは採算を非常に重視し、いかにコストを下げるかを最も問題にします。部品購入については厳しいが、合理的な考え方をしている。相手もある程度の利益を出すのを当然と見て、とことん話し合う。ただ値引きしろ、という単純なものではない。安くするために、製造過程をもっと効率的にできないかということに力を注ぎますね。

 自動車業界で生き残っていくには、世界に先駆けていい車を一番安い価格でつくらないといけない。国内で三十万台か四十万台しか売れないマツダ一社では、それはできない。マツダが何百億円もかけて大きな車を開発するより、フォードの車を(マツダの車として)引き取ればいい。その代わり、フォードはマツダの得意な小型車を開発してもらって引き受ける。フォードが経営していなかったら、マツダは持たなかったでしょう。

 フォードは社長を出すことにこだわってはいません。マツダに立派な経営者が出てくれば、その人を社長にしますよ。一昨年の増資で、社長をだれにするかとなった時、僕はヘンリー・ウォレス副社長がいいと申し上げた。フォードは、日本の会社だから外国人ではやりづらいんじゃないか、とだいぶためらった。でも、仕事もできるし、社内の人気もあったから、ウォレスさんを推薦したわけです。

 フォードがマツダの経営に入っても、住友銀行の立場は全然変わりません。うちが離れて行くと言われたが、そんなことはない。かといって、いつまでも銀行から人を派遣するわけにいかない。自動車を知っている人たちが、経営するのが一番です。二年前に僕がマツダの取締役に入ったのは、住友銀行が逃げたと言われるのがいやだったからです。

 われわれの立場は、介添役です。金融面で必要があればうちがやる。マツダが繁栄しないと、従業員や部品メーカーなど何十万人という人たち、広島の経済が困る。マツダに住友銀行が口を出す時代じゃないですが、もし日本的風土が阻害されるようなことがあれば、フォードにものを申し上げるつもりはあります。


 《資本提携交渉》 一九七〇年九月、当時の松田耕平東洋工業副社長が渡米し、フォード・モーターのヘンリー・フォード二世会長と会談。フォード側が資本提携を打診した。両社は、フォードが東洋工業の株式の二〇%取得するのを前提に交渉を始めた。七〇年十月、フォードの出資比率を二〇%とし、役員二人を東洋工業が受け入れることで大筋で合意。しかし、東洋工業が求めた「乗っ取り防止」の明文化に、フォードが難色を示して交渉は暗礁に乗り上げる。交渉は中断、再開を繰り返し七二年三月、白紙撤回された。その後、東洋工業は第一次石油ショックによる販売不振の影響で経営が悪化。住友銀行主導の再建下にあった七八年六月、フォード二世が来日し、資本提携交渉を再開。七九年十一月、フォードが株式の二五%を取得した。九〇年代に入り、マツダはバブル期に進めた販売網拡大策が失敗。再び経営危機に陥り九六年五月、フォードが持ち株比率を三三・四%に引き上げた。フォードはマツダ筆頭株主となり、株主総会での単独拒否権を得て、マツダを系列に収めた。


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