相続へ巧妙なシナリオ |
| '96/12/11 |
わき役でしかなかった毛利元就が、当主の兄興元、おい幸松丸の 相次ぐ死で、思いがけず郡山城主の地位をつかんだ。二十七歳で、 偶然に巡ってきた主役の座を得て、群雄割拠の戦国時代を生き抜く ための足固めに着手する。前途には、武将としての資質をも問われ る試練が待ち受けていた。
元就が宗家の当主として郡山城に入城したのは、幼主幸松丸の死 後二十五日経った一五二三(大永三)年八月十日だった。それに先 立って、毛利一門の宿老十五人全員が、元就に相続者として入城を 請う起請文に署名。幼君死後の継承者擁立に向けた素早い対応を経 ての相続だった。
このシナリオを書いたのが重臣、志道広良である。広良は、興元 の時代から政務の最高ポスト「執権」職にあった。興元が存命中の 一五一三(永正十)年、十七歳の元就と二人で宗家への忠誠を誓い 合った。交わした誓紙は、若い元就の暴走を防ぐ狙いに重点を置い た内容。広良にしてみれば、元就に足かせをはめたつもりだったよ うだ。
幸松丸の死で、まず広良が動いた。既に元就の相続を決心してい たとみられる。広良は、早速主な宿老や若手譜代衆を取り込む多数 派工作を練る一方、猿掛城の元就には、郡山城に入いるよう懇請し た。幸松丸急死から十日後、宿老全員の連署状が元就の元へ届けら れた。異議なく元就を当主に受け入れることを意味している。
広良が、宿老全員の署名にこだわるには、もう一つの理由があっ
た。当時、影響力を強めていた尼子氏の出方を封じる布石だった。
幸松丸の早世で家督後継者が絶えたのを理由に、尼子氏から強引に
子どもを家督継承者に押しつけられる恐れがあっただけに、毛利氏
側の動揺や混乱を見せるわけにはいかなかった。
尼子氏へは、先手を打って相続の了承を得るための特使を送り、 「家中一致」の決定を報告。尼子氏介入のすきを与えない広良の巧 妙な策だった。尼子氏の当主経久も口を挟む余地はなく、認めざる を得なかった。その後、異母弟で三男の相合元綱をかつぐ一派の策 動で、宗家継承を巡る血生臭い事件が噴出しただけに、広良の間髪 をいれない行動は、元就の運命を決定づける先見の明だった。
こうして幸松丸死後、一カ月も経たないうちに、元就の郡山城主 が実現した。入城は吉日の八月十日「申酉の刻」(午後五時ごろ) と決まった。家督相続のいきさつは、元就自筆の「郡山入城日記 」、毛利氏祈願寺の満願寺住職が選んだ「入城吉日」の決定など詳 細な記録(いずれも毛利家文書)が残されている。
元就は、苦楽の思い出がしみ込む猿掛城を去った。四歳の折、父 弘元に連れられて猿掛城にやってきた同じ石州街道を東の郡山城へ 向かう元就。来し方、行く末を思ってしばしの感慨にふけったこと だろう。
郡山城入城に際して元就は、次の句を残した。「毛利乃家わし乃 はを次脇柱」 二男の身で宗家を継ぐことになった気概を託したものだ。
【写真説明】宗家継承のため元就が入城した郡山城跡のある郡山



