家督相続めぐり血の粛清

'96/12/12

 毛利元就の家督相続は、当初、執権の志道広良が描いたシナリオ 通り、すんなり運ばれたかにみえた。

 ところが、思いがけない波乱が潜んでいた。一五二三(大永三) 年八月の相続後、元就を暗殺し、異母弟で、弘元の側室から生まれ た三男の相合元綱を当主に据えようとする陰謀が、発覚したから だ。郡山城主として国づくりに一族をまとめていこうという矢先、 身内や譜代の裏切り者を粛清する無残な羽目に陥った。

 暗殺計画の首謀者は、元就の郡山入城を要請した宿老十五人の署 名者の中にいた。坂広秀と渡辺勝一派のたくらみで、野心に燃える 元綱も策謀にのめり込んだ。元就抹殺は未然に阻止され、元綱はも ちろん坂広秀、渡辺勝も断罪された。

 しかし、処断の時期をはじめ、城主転覆の謀議など詳細な記録は 見つかっていない。郡山城入城などでは、文書類の記述が詳細なの に比べ、暗いイメージを思い起こさせるこうした部分の不明りょう さが目に付く。

 ただ、この事件後、毛利の家臣から尼子氏の奉行人にあてた書状 の中に、背景をうかがわせる事項がある。

 「(尼子)経久は元就相続のことを承諾していたのに、渡辺一派 と尼子氏家臣の亀井秀綱が気脈を通じて相合元綱擁立を画策した」 とし、家督相続に関して尼子氏側の関与があったと指摘。元就が尼 子氏側に対する不信を抱く理由に上げている。

 このことから、元綱の誅殺(ちゅうさつ)は、元就が郡山城主に 就いてから尼子氏と絶交する一五二五(大永五)年にかけての二年 の間に実行されたようだ。

 軍記物などは、元綱は郡山城そばの船山城で夜討ちにあい、この 城で葬られたと記している。船山城跡そばにある相合地区の民家の 庭先に、「相合四郎之墓」と彫った墓石(高さ約四十センチ)がたたず む。地区では、この墓を別の異母弟・相合就勝(四男)とみる人 と、元綱とする説が伝わっているが、定かではない。

 陰謀事件には毛利氏宿老が絡んでいたため、家臣の間にも動揺が 走った。特に、坂広秀の場合は、執権の志道広良、宿老桂元澄が親 類に当たることから、広秀のいとこ桂広澄が、縁者の中から謀反人 を出した責任を取る形で自害。広澄の息子二人も後を追おうとした が、元就本人が必死の説得にあたり、思いとどまらせている。一連 の動きをみても、宗家継承をめぐる血なまぐさい騒動の深刻さが浮 かび上がってくる。

 粛清に関していえば、元就の家督相続から二十七年後の一五五〇 (天文十九)年、横暴のかどで、相続を支持した宿老の一人、井上 元兼を中心とする一党三十余人の「誅戮(ちゅうりく)」がある。 元就が相次いで両親を失い、猿掛城で孤独に追いやられていた幼時 に、多治比の領地を横領された後見人の家老、井上元盛も一族だっ た。  井上誅戮は、元就が戦国大名への道を歩みだしていた時期で、統 制を乱す元兼勢力一掃の断が下された。下克上の戦国時代。不穏な 世情に、元就はあえて身をさらしていく。

【写真説明】兄に背いた、異母弟の相合元綱という説もある民家庭先にある墓


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