一族の繁栄へ厚い信仰 |
| '96/12/18 |
毛利元就は、とりわけ信仰心の厚い人物だったことが、その事績 からうかがえる。祈願寺社として毛利氏一族の心のよりどころとな った満願寺と清神社(祇園社)にも触れておこう。
両寺社は、毛利氏が郡山に入ってくる以前から、吉田に存在して いた。だが、毛利氏の動向につれ対照的な変遷をたどる。
満願寺は、初め顕教だったようで、真言宗に改めて、毛利氏の祈 願所になった。元就が家督相続者として郡山城入城を果たす一五二 三(大永三)年、入城日の吉日(八月十日)を祈願したのもこの 寺。以後、元就から長男隆元、孫の輝元へと信仰をつないでいく。
祈願についてみると、輝元が家臣と満願寺にあてた「このたびの
祈祷は宗(毛利一族)のため、家中のため、一身のため、万(よろ
ず)のためであり、今この時運命が決するのであるから普段の心崖
(掛け)ではいけない」という内容の書状が残されている。秀吉の
朝鮮侵略か関ヶ原合戦のどちらかに出陣中の模様らしく、緊迫した
状況が伝わってくる。これをみても、毛利氏が満願寺に深く帰依し
ていたことが分かる。
輝元の代になって広島城に移り、さらに萩城へ移封となった際 も、毛利氏は満願寺を帯同した。萩城が廃城になって大正初期、防 府市の防府天満宮西隣へ移って現在に至っている。郡山中腹に満願 寺跡の碑が建っているが、調査されていないため、寺域の規模など は今も確認されていない。
清神社は、郡山の南ふもとにある。一八七二(明治五)年、清神 社に改称されたが、長く「祇園社」と呼ばれていた。奈良時代の創 建といわれる。
神社の特徴は、一三二五(正中二)年から一六九四(元禄七)年 にかけた神社の造営、修理に関する棟札が多数保存されていること だ。棟札は三百七十年間の歴史をつなぐ証言者の役目を果たしてい る。なかでも、毛利氏関係は一四〇〇(応永七)年に光房が収めた 修理棟札から、弘元、興元、幸松丸、元就、隆元、輝元まで七代に 及ぶ棟札十三枚が確認されている。
清神社を訪ねた。境内にそびえる六本の杉の巨木が、切り妻造り の本殿を包み込み、青さびた屋根をいっそう引き立てる。現社殿は 一六九四年の建立とされている。太い杉は、幹回りが大人四人がか りでやっと。
「杉は、町の天然記念物で、樹齢五、六百年と推定されていま す。元就自身もこの杉を見ながら成長したはずですよ」。十七代目 の宮司を今年継いだ波多野邦彦さん(61)は、天空を突き刺すように 伸びる木の肌に手を触れ、往時に思いをはせる。静寂の中にたたず む杉の巨木。他を圧倒する存在感だ。樹齢が正しいとすれば、まさ に元就の生涯を見届けた生き証人なのだ。 毛利氏の手厚い保護を受けながら、異なった運命をたどった満願 寺と清神社。どの時代でも、毛利氏と深くかかわってきただけに、 一族の消長にもつながる信仰と暮らしを支えた、比類ない寺社であ る。
【写真説明】杉の巨木に守られるようにたたずむ清神社



