城取り巻く強固家臣団

'96/12/19

 毛利元就が、郡山城を相続してから中国経略へと進展していく過 程を支えたのは、強固な家臣団だった。

 宗家と家臣団の関係は、毛利一族と呼ばれる血縁の濃い「庶家 」、さらにその庶家の親類筋や庶家に仕える近臣で構成する「譜 代」、それに配下に収めた地方豪族の領主である「国衆」「外様」 という縦の結びつきからなっている。

 元就が郡山城主に収まった当時、いったい、どれだけの家臣によ って支えられていたのだろうか。残念ながら宗家継承時、連署状に 名を連ねた宿老十五人のほかに該当する史料はない。

 元就の相続から二十七年後の一五五〇(天文十九)年ごろは、家 督を長男隆元に譲り、二男元春と三男隆景に吉川、小早川両家を継 がせるなど、大きな飛躍を遂げようとしていた時期である。この 年、元就は家臣で有力譜代の一人、井上元兼ら井上一党三十余人を 横暴を理由に粛清し、家中の引き締めを図っている。

 併せて家臣らの動揺を抑えるため、忠誠を誓う「家臣連署起請 文」(毛利家文書)に署名をさせている。その数が二百三十八人。 一五五七(弘治三)年の狼藉(ろうぜき)を禁止する家臣連署起請 文(毛利家文書)にもほぼ同数の署名があるので、庶家、譜代を中 心にした「毛利家中」といわれる家臣は、二百三十八人に近い数字 だろう。

 もちろん、これら家臣はそれぞれ家来を抱えている。武士の鎧 (よろい)などを請求する一五五四(天文二十三)年の「具足注 文」(毛利家文書)によると、家臣百六十九人から家来の数に応じ て注文が出されており、その合計は千五十八両(両は鎧の単位)に 達している。これらは家臣の一部の数であって、全体を把握するに は、まだ史料不足といえよう。

 家臣を知るもう一つの手掛かりは絵図。郡山城を中心に描かれた 絵図は二十数点に及んでいる。いずれも江戸中期に描かれたものら しく、縦書き、横書きなどさまざまな描き方がされている。このう ち特に、注目されるのが、縦書き絵図に見られる家臣の屋敷名を描 いた図柄だ。

 広島女子大の秋山伸隆助教授(43)の研究では、絵図のなかには家 臣の屋敷記載が九十七カ所に上るものがある、という。時代も元就 から孫の輝元時代まで。しかも、主だった家臣の屋敷は、文献に出 てくる場所とほぼ符合した点に注目する。「毛利氏三代を支えた家 臣団を一枚の絵にすることで歴史的空間、つまり、記録性に重点が 置かれた」と、秋山助教授は結論づけている。

 絵図の郡山城内には、桂元忠をトップに、国司、粟屋、赤川、児 玉など重臣クラスの屋敷図と名前が描かれており、ふもとや城下の 町屋などにも家臣の名前がびっしり描き込まれている。絵図を通し て、郡山城を取り巻く家臣団の配置を見ると、元就時代の吉田をよ り身近に感じさせる。  こうした城造りや家臣団の形成を背景に、元就は苦節を重ねなが ら歴史の表舞台に登場していく。

【写真説明】杉の巨木に守られるようにたたずむ清神社


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