尼子氏から離反選ぶ

'96/12/20

 下克上の戦国時代は、強者だけが生き残れる、力の世界だった。 戦に敗れれば一族滅亡で、一つの選択、一つの判断が、生と死を決 定的に分けた。一五二三(大永三)年、小国の郡山城主に収まった 毛利元就にも、大内、尼子両氏の二大勢力に挟まれて、危うい選択 の岐路が迫っていた。

 元就の命運を握った大内、尼子両氏は、中国地方でどのように影 響し合ったのか、ここで両氏の確執をたどってみる。室町末期の一 四六七(応仁元)年、京都を中心に起きた応仁の乱で、西軍につい た大内氏は、幕府に対抗する勢力になっていた。義興が政弘から家 督を継いだ一四九五(明応四)年ごろには、防長から九州にかけて の四カ国の守護を兼ね、石見、安芸両国も事実上、支配圏に取り込 んでいた。

 さらに義興は、幕府の内紛により、追われて山口に亡命していた 足利義稙を、再び十一代将軍に復帰させて管領代となり、安芸の国 人領主を伴って京都に赴いた。このとき、元就の兄興元が、三年余 り在京する。その後、興元ら帰国した安芸の国人領主九人が盟約を 結び、大内氏からの中立を図る一方、山陰で急激に勢力を拡大して いた月山富田城(島根県能義郡広瀬町)の城主尼子経久の山陽進出 をけん制した。

 経久は、義興が京都滞在で足元の守備を怠っている間に、反大内 側に回った備後の古志、安芸の吉川両氏を足掛かりに山陽侵攻を強 めた。元就が家督を継ぐころには、備後、安芸両国の勢力図は尼子 一色に塗り変わっていた。失地ばん回を図る大内氏も一五一八(永 正十五)年、義興が京都から帰国。尼子氏との対立が一層険しくな っていく。

 両氏間の象徴的な出来事は、厳島神主の居城・桜尾城(廿日市 市)と、鏡山城(東広島市鏡山)の攻防といわれている。正確な記 録はないが、軍記物などでは大永二年から翌年にかけて桜尾城、鏡 山城の争奪戦が一転二転、目まぐるしい展開をしている。毛利氏 は、経久から九歳の当主・幸松丸が、元就を相伴に先ぽうを命じら れて鏡山城を攻略したのも、この戦であった。安芸の国人領主のリ ーダーと目された毛利氏は、尼子、大内両氏にとって戦略上も無視 できない一党だったに違いない。

 いったんは、尼子氏側に組した元就だったが、主家相続の二年 後、大永五年には大内側に帰属している。尼子氏から反転の理由は はっきりしない。鏡山城攻撃の際、経久の厳命で、幼少の幸松丸 が、最前線に立たされ、結果として死を早めたことや、家督相続で 元就を裏切った家臣の陰謀に尼子氏が荷担した、という理由が上げ られている。元就と指南役の執権、志道広良のコンビが、将来を展 望して、大内氏選択で合致したという見方も有力だ。  元就は、ひとまず大内氏に従属することで、延命策を講じた。当 然尼子氏との関係は緊張したはずだが、果たして、その猛反撃を予 想したかどうか。一族の運命を決定づける試練がやがてやってく る。

【写真説明】大内、尼子両氏の激しい攻防の舞台となった鏡山城跡(東広島市)


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