大内氏と結び勢力拡大

'96/12/21

 毛利元就が尼子氏を離れて、大内氏へ従臣するのは一五二五(大 永五)年三月である。大内氏の重臣、陶興房が元就の家臣にあて 「元就が大内についてくれたのは、あなたがたの力添えがあったた めで、すぐにでも面談したい」(萩藩閥閲録)という内容の書状を 送っている。元就の大内親交への決断は、その後の元就の運命を大 きく変える契機になった。元就は二十九歳の働き盛りになってい た。

 大内氏に服属後、天文年間(一五三二〜一五五五年)に入ると数 年間は、元就にとって最も安定した時期で、周辺豪族の吸収に全力 を注ぐ好機にもなった。長男隆元に次いで二男元春、三男隆景が誕 生し、家運隆昌の兆しもみられた。周辺情勢も変化した。大内氏 は、当主が義興から義隆に代わり、尼子氏も経久の跡目相続に絡ん で内紛が表面化。両勢力とも外に目を向ける余裕がなかったこと も、元就に幸いした。

 元就は、義興から大内氏方についた褒賞として南部の温科(品) =広島市東区、可部、深川、久村(広島市安佐北区)などの知行地 を与えられるが、当時この一帯は尼子方・武田氏の領域だった。し かし、広島湾岸をにらむこれらの領地は、南方進出を望む元就にと って、新たに展開する勢力拡大の足掛かりになった。

 一五三三(天文二)年、宿敵だった隣接の五竜城(広島県高田郡 甲田町)の城主・宍戸氏と和解。武田氏寄りだった三入高松城(広 島市安佐北区可部町)の城主・熊谷氏を配下に置くなど、戦略上重 要地点にある両氏を、巧みに陣営に組み込んだ。さらに備後に影響 力をもつ宮惣領家の本拠亀寿山城(芦品郡新市町)、多賀山氏の蔀 (しとみ)山城(比婆郡高野町)などを次々に攻略。大内氏の威力 を利用しながら備後、安芸両国に影響力を及ぼすまでになってい た。

 とはいっても、大内、尼子両強国に対抗するほどのパワーはなか った。そこで、元就は押しつぶされないための計略を駆使する。尼 子氏と親族の吉川氏を通じて、尼子氏と年頭あいさつの使者を交換 したり、一五三一(享禄四)年には、やがて尼子氏を継ぐ血気盛ん な晴久に対して兄弟の契りを結ぶ申し入れをした。用心深い元就の 巧妙な両面策と見てとれる。

 こうした行為をしながら大内氏寄りを強めて行く元就の行動に対 して、当時の尼子氏の奉行衆が吉川氏宿老にあてた書状に「われわ れは毛利氏に対してなんの遺恨だてもしないのに、一方的に敵対の 色を現したことは口惜しい」(吉川家文書)と、不信感をあらわに している。

 晴久が、そんな元就の行動に対して反撃を加えるのも、また素早 かった。一五三六(天文五)年に大軍を率いて南進を開始、たちま ち毛利氏圏域での失地回復を図っていった。翌六年、尼子氏は祖父 経久に代わって晴久が当主の座に収まると、元就憎しをむき出しに し、郡山城攻略をもくろんで南下作戦を加速する。防戦一方となっ た元就も、援助を乞うために大内氏寄りを一層鮮明にしていく。そ こで、また宗家の危機回避の秘策を凝らすことになる。(第2部終 わり)  第3部は1月中旬から掲載します。

【写真説明】毛利氏の家臣となって活躍した熊谷氏の居城だった高松城跡(広島市安佐北区可部町)


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