|
2000.7.31 |
| 第 3 部 行 政 |
![]() |
|
|
| 東西対立・印パ・・・32年間で574回 | ||
| 抗議電 |
![]() 核実験のたびに、広島市が打ってきた抗議電報。現在は電子郵便に変わったが、その数は三十二年間で五百七十四回に達した。抗議電の歴史を振り返れば、その時々の核をめぐる状況が見えてくる。 広島市が最初に抗議電を打ったのは、山田節男市長時代の一九六八年九月。フランスが相次ぎ水爆実験を強行したことに対し、「貴国の実験は国際的核競争をあおり、その結果は人類の全面的破滅をもたらす」と、ドゴール大統領に警告した。 これまでに抗議電を送った国と回数は、米国の二百十九回が最多で、ソ連時代を含むロシアが百八十五回と次ぐ。以下、フランス百十八回、中国三十回、英国十七回、インド三回、パキスタン二回の順となる。 核状況が激動した八〇年代。欧州への中距離核ミサイルなどの配備をめぐり、東西対立が激化。米ソが核実験を繰り返した。八〇年五月に通算二百回になった広島市の抗議電は、十年後の九〇年三月には五百回を記録した。 同時に、八〇年代は欧州で反核運動が盛り上がった時期でもあった。八一年が年間二十回と前年より半減した背景には、反核運動の力があったといわれる。八五年八月にソ連が一方的に核実験停止を宣言し、一年七カ月間続いた。 米ソは八七年十二月、中距離核戦力(INF)廃棄条約に調印したが、その五日後にソ連が核実験を実施。中性子爆弾や戦略防衛構想(SDI)の登場もあり、同年の抗議電は四十四回と年間最多を記録した。 見送った例もある。八八年八月に米ソが行った共同核実験に対し、市は「全面的核実験禁止へ第一歩」と評価して抗議電を送らなかった。 九〇年代は冷戦が終結したことから、十回を下回る年が続いた。だが、九八年はインドとパキスタンによる核実験の応酬で十一回と再び増加。九六年九月に包括的核実験禁止条約(CTBT)が国連で採択されたことから、臨界前核実験に切り替えた米国とロシアに対しては依然、「核戦争につながる点では同じ」として抗議電を送る。 広島市の住田雄二平和推進担当課長は「市としては、核兵器廃絶が実現するまで抗議電を送り続ける」と話している。
|
