「難局を乗り越えられるか、やってみなけりゃ分からない。結果 を考えたら何もできない」。カルシウム不足だった戦後の日本にふ りかけを定着させた。業務用トップメーカーに成長するまでの道の りは「逆境」との戦いだった。 13人兄弟の長男。高等小学校卒業後、すぐに広島の乾物屋に奉公 に出て、実家への仕送りに明け暮れた。兵役後は店を任されたが、 30歳のころ独立を決意した。「勤め人の給料では、とても家族を養 えなかった。いちかばちかの勝負だった」と振り返る。 戦後の統制をいち早く解かれた唐辛子などの香辛料を販売。つく だ煮店などへ売り歩くうち、取引先で売り上げが伸びていたふりか けに注目した。「小さいさじで一杯の香辛料と大量消費されるふり かけとでは、売り上げが何百倍も違う」。瀬戸内海の幸も生かせ る、とふりかけの製造を始めた。 当時のふりかけは「旅行の友」「遠足の友」と呼ばれ、魚粉を缶 に入れて家庭向けに売られていた。大手との競争に生き残るため、 価格の4割を占めていた缶の使用をやめ、量り売りを開始。ノリや ワカメ入りふりかけの開発、粉せっけんの小袋を応用した一食用ふ りかけなどにも取り組み、業績は伸びた。 だが、1960年代後半から急に売れ行きが止まり、売り上げは 前年に比べて15―20%落ちた。借金返済のため、金利だけで売上高 の7%も払ったこともあった。 「会社がつぶれても従業員が生きていけるように」。現在18店を 展開する総菜店「サラヤ」やボーリングなどができるミスズガーデ ン(佐伯区)など多角化を始めたのも、このころからだ。 「会社の将来は社長である息子が決める。私は病気をせず、若い 人の邪魔にならないようにする」と話すが、80歳を超えた今も月1 回は東京で得意先を回る。年に4、5回は中国・大連工場へ視察に 出かける。 「厳しい時代だと言われているけど、新しい事業に挑戦できるチ ャンスでもある。何年かたてば、そんな時代だったな、と振り返っ ているだろう」。将来を見据える視線の鋭さは、まだまだ現役だ。 (岡本玄)
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