中国新聞
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アスリート

■運は自分で切り開くもの 30歳の北京五輪ピークに■

広島から世界へ。「反骨の男」が頂点へのハードルを跳び越えていく
為末大
ためすえ・だい 広島市佐伯区出身。五日市中3年の時、全国中学大会100メートル、200メートル2冠。200メートルと三種競技Bで中学新記録。皆実高時代も世界ジュニア選手権400メートルで、日本短距離界初の世界大会4位に入る。96年の広島国体では400メートル、400メートル障害を日本ジュニア記録で制す。法大入学後はスランプに苦しんだが、2001年の世界選手権では47秒89の日本新記録で3位に入る。

 1928年アムステルダム五輪で日本初の金メダリストとなった 陸上・三段跳びの織田幹雄をはじめ、広島は数々の名選手を輩出し てきた。76年のモントリオール五輪以降はメダリストが生まれず、 輝きを失いかけていた「スポーツ王国」に待望の新星が現れた。

 為末大。昨年8月、カナダ・エドモントンであった世界陸上選手 権男子400メートル障害3位。日本陸上史上初のトラック種目メダ リストである。

 五日市中3年、皆実高3年で日本一の表彰台に登り、いずれも中 学、高校記録をマーク。大学4年で迎えたシドニー五輪でこそ転倒 という結果になったが、翌年の世界選手権では驚異的な日本記録で 銅メダルである。

 中、高、大と最終学年には必ず何かをやり遂げてきた。169セ ンチの身長は世界で大きなハンディだ。それでも計画性や目標実現 への底力はいつも周囲を驚かせた。「巡り合わせの運もあった。で も、運は自分で切り開くものとも思っています」

 世界3位にいたるまで順風満帆だったわけではない。高校でも大 学でも、故障や極度のスランプに苦しんだ。「為末は終わった」と 陰口をたたかれたことさえある。「勝てないことに加えて、髪を染 めたり、ピアスを入れたりして、いろいろ言われた。でも、結局、 それもエネルギーになったんだと思う」

 「反骨心」が為末を強くした。壁に当たっても記録を伸ばし、勝 利を引き寄せることができたのは、「このままでは終わらない」と いう強い意志の持続にほかならない。

 「気持ちが続いたから結果が出せた。これからもきっと、そんな ことを繰り返すんだと思う」

 4月からは大阪ガスに入社。ハンマー投げの室伏広治に続くプロ 選手申請も頭にある。世界が狙える位置にたどりついた今、周囲は 打って変わって称賛の嵐を浴びせている。だからこそ、自分で自分 にプレッシャーを与えようとしている。新たなエネルギーを得るた めに。

 「アテネ五輪? 当面の目標はそう。でも、30歳で迎える北京五 輪に最高のピークを持っていきたい。勝つために」

 広島から世界へ。為末が五輪でのメダル、そして世界一へのハー ドルを飛び越えた時、「スポーツ王国・広島」も輝きを取り戻す。

(小笠喜徳)

広島情熱人列伝
三段跳び国民的ヒーロー

 織田幹雄(1905―98年)=アムステルダム五輪陸上三段跳 び金メダリスト、広島県海田町出身

織田幹雄 旧制広島一中(現国泰寺高)から早大に進み、28年アムステル ダム五輪三段跳びで日本人初の金メダリストとなり、国民的ヒーロ ーとなる。指導者としても東京五輪陸上総監督などを務めた。
 31年の中国駅伝創設には「広島へ恩返しをしたい」とコースや距 離を助言。67年から功績をたたえて広島で始まった織田記念陸上で は「1人でも多くの選手が世界へ出てほしい」と願い続けた。「ス ポーツは科学だ」が信条。生涯、競技力向上への意欲を燃やし、孫 のような選手や指導者たちへ助言を続けた。

体操の女王 息長い活躍

 池田敬子(68)=東京五輪体操銅メダリスト、三原市出身

池田敬子 広島が生んだ体操の女王。高校から競技を始め、54年のローマの世界選手権の種目別平均台で、日本女子体操界初の金メダリストとなった。64年の東京五輪では、日本初の「五輪ママさん選手」としても注目され、団体銅メダルの原動力となった。
 36歳で引退するまで、3度の五輪と4度の世界選手権に出場。日本体操協会副会長などを歴任。2000年のシドニー五輪では、女子強化担当を務めた。現在もジュニアを対象とした体操クラブを主宰。「体操ニッポン」復活を目指し、後進の指導に力を注いでいる。

五輪柔道初「金」つかむ

 中谷雄英(60)=東京五輪柔道軽量級金メダリスト、広島市佐伯区

中谷雄英 「世界を極めるには、忍耐と思いやりが欠かせない」。柔道で初の五輪金メダリストに輝いた男の座右の銘である。
 広陵高出身。明大4年で頂点に立った。旧西ドイツのナショナル チームコーチなどを経て、73年から広島市中区で宝石店を営む。広 島県柔道連盟理事長。「いつか、広島で3人目の金メダリストを輩 出したい」と夢を語る。


ひろしま情熱人列伝
サッカー銅メダルに貢献

 小城得達(59)=メキシコ五輪サッカー銅メダリスト、広島市西区

小城得達 広大付から中大進学。64年の東京五輪の初戦、アルゼンチン戦 で決勝ゴールを決めた。68年のメキシコ五輪では釜本らと銅メダル を獲得した。東洋工業(現マツダ)入社後は日本リーグ4連覇に貢 献。77年に現役を退き、81年まで監督を務めた。
 今年のワールドカップ大会。「日本であるのは本当に夢のよう。 代表はプレーを磨き、勝つための努力をしてほしい」と後輩にエー ルを送る。

世界で輝く名セッター

 猫田勝敏(1944―83年)=ミュンヘン五輪バレーボール金 メダリスト、広島市安佐南区出身

猫田勝敏 2001年、国際バレーボール連盟が「20世紀最優秀選手特別 賞」を贈られた名セッター。
 崇徳高から専売広島(現JT)に進み、64年の東京大会以降、五輪に4大会連続出場。東京の銅、メキシコの銀、ミュンヘンで念願の金メダルを獲得。時間差攻撃などコンビバレーの指令塔役を担った。
 「セッターが目立ってはだめ」が身上だった。胃がんのため39歳で死去。

打って守ってカープの顔

 山本浩二(55)=広島東洋カープ監督、広島市佐伯区出身

山本浩二
初優勝を決め、お立ち台で号泣(75年10月15日、後楽園球場)
 「ミスター赤ヘル」として、カープが生んだ最大のスター選手。 広島市民、県民を熱狂させた1975年の初優勝では、雄たけびとともにグラウンドで涙した。  以来、球界を代表する4番打者として、首位打者、本塁打王など 数々のタイトルを獲得した。ファンの期待にこたえ、夢を与える存 在に。86年、優勝を花道に現役を引退し、「背番号8」は永久欠番 に。91年には監督としてV6を達成した。  新世紀から再び監督に就任。「今年はファンにも燃えてもらいた い」と、11年ぶりの優勝を狙う。