AMDAインターナショナル(アジア医師連絡協議会)の活動の 底には、広島人のチャレンジ精神があると言う。例に「移民、流川 のにぎわい、カープ」を挙げた。面白がり、何くそとはい上がろう とする根性。 表舞台に出たのは、1992年春だった。バングラデシュに流入 したミャンマー難民のために医療チームを派遣した。 この日まで挫折や我慢の繰り返しだった。 79年、タイ。カンボジア難民の力になろうと、医学生2人と乗り 込んだ。キャンプの場所もわからない。バンコクで聞き回り、国連 難民高等弁務官事務所が取り仕切っていると初めて知る。 ようやくたどり着くと、ドイツの医師に「手が足りている」と断 られた。国際協力事業団(JICA)の医療チームが来た。勇んで 名乗り出たが、「責任が持てない」と相手にされなかった。 情熱は空回りした。1週間で帰国した。 活動の原点は高校時代に見た1枚の写真である。南太平洋の浜辺 で、同じ年格好の日本兵がうつぶせで死んでいた。「死」を痛烈に 感じた。その時鳴いていたセミの声は今も耳に残る。 入学した岡山大は学生運動のさなかだった。「敵」と「味方」に 二分するやり方に嫌気が差し、1年近くアジアを旅した。 帰国した70年からは毎年、タイやネパールへ医学調査団を送っ た。カンボジア難民救援は、決して思いつきではなかった。それだ けに、熱意だけでは何もできない現実に打ちのめされた。 その後はひたすら、国際会議を重ねた。ネットワークづくりと情 報収集。この10年余りを冗談めかして「不遇の時代」と呼ぶ。「人 との出会いが面白かった。人の役に立ちたいなんて思っていたら、 とっくにやめていた」。92年はようやく巡って来た出番だった。 いま世界49の活動拠点で約400人が働き、1万人以上が支え る。大きくなっても、動機は好奇心、理念は「困ったときはお互い さま」。人を救う目的のためなら、無原則、無思想、時には無節操 でも構わない。 「広島のチャレンジ精神は、『平和都市』の看板に金縛りになっ ている」と挑発的に言う。「平和というのは、戦争がないだけじゃ ない。災害と貧困をなくすために、ため込んだ力を爆発させてほし い」 (増田泉子)
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