中国新聞
タイトルロゴ「情熱のバトンリレー・国際」

AMDAインターナショナル
理事長

■出会いが面白くて人助け チャレンジ精神が根底に■

病院の一角にあるAMDA事務所で、ボランティアに声をかける
菅波茂
すがなみ・しげる 広島県神辺町出身。岡山大医学部大学院で公衆 衛生学を修める。勤務医を経て、81年に岡山市内に内科医院を開 業。その間もアジアの医学生の会議を重ね84年、AMDA設立。こ れまで約50カ国で緊急援助活動や開発プロジェクトを実施した。特 に95年は、阪神大震災、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の洪水 などで成果を挙げ、国連にNGOの認定を受けた。現在はアフガニ スタンなど19カ国で活動中。岡山市楢津で営む医療法人の中に、事 務所を置く。

 AMDAインターナショナル(アジア医師連絡協議会)の活動の 底には、広島人のチャレンジ精神があると言う。例に「移民、流川 のにぎわい、カープ」を挙げた。面白がり、何くそとはい上がろう とする根性。

 表舞台に出たのは、1992年春だった。バングラデシュに流入 したミャンマー難民のために医療チームを派遣した。

 この日まで挫折や我慢の繰り返しだった。

 79年、タイ。カンボジア難民の力になろうと、医学生2人と乗り 込んだ。キャンプの場所もわからない。バンコクで聞き回り、国連 難民高等弁務官事務所が取り仕切っていると初めて知る。

 ようやくたどり着くと、ドイツの医師に「手が足りている」と断 られた。国際協力事業団(JICA)の医療チームが来た。勇んで 名乗り出たが、「責任が持てない」と相手にされなかった。

 情熱は空回りした。1週間で帰国した。

 活動の原点は高校時代に見た1枚の写真である。南太平洋の浜辺 で、同じ年格好の日本兵がうつぶせで死んでいた。「死」を痛烈に 感じた。その時鳴いていたセミの声は今も耳に残る。

 入学した岡山大は学生運動のさなかだった。「敵」と「味方」に 二分するやり方に嫌気が差し、1年近くアジアを旅した。

 帰国した70年からは毎年、タイやネパールへ医学調査団を送っ た。カンボジア難民救援は、決して思いつきではなかった。それだ けに、熱意だけでは何もできない現実に打ちのめされた。

 その後はひたすら、国際会議を重ねた。ネットワークづくりと情 報収集。この10年余りを冗談めかして「不遇の時代」と呼ぶ。「人 との出会いが面白かった。人の役に立ちたいなんて思っていたら、 とっくにやめていた」。92年はようやく巡って来た出番だった。

 いま世界49の活動拠点で約400人が働き、1万人以上が支え る。大きくなっても、動機は好奇心、理念は「困ったときはお互い さま」。人を救う目的のためなら、無原則、無思想、時には無節操 でも構わない。

 「広島のチャレンジ精神は、『平和都市』の看板に金縛りになっ ている」と挑発的に言う。「平和というのは、戦争がないだけじゃ ない。災害と貧困をなくすために、ため込んだ力を爆発させてほし い」

(増田泉子)

広島情熱人列伝
日本の欧州留学生 草分け

 渡六之助(正元、1839―1924年)=日本の欧州留学生 の草分け。現在の広島市南区出身

渡六之助  若くして欧州留学の大志を抱き、大阪に出てフランス語を学ぶ。 苦心して費用を工面、1869(明治2)年、30歳で渡欧を果た す。間もなく普仏戦争がぼっ発。戦時下のパリの様子を日誌に記し たところ、日本軍関係者の目に留まり、国費留学生に抜てき。帰国 後は、陸軍少佐などを経て貴族院議員に。
 日誌は、「巴里籠城(パリろうじょう)日誌」として出版され、 大仏次郎著「『パリ燃ゆ」』にも一部が引用されている。
 (写真は田中隆二広島市立大教授提供)

ハワイ官約民の第1号

 灰田勝五郎(1863―1920年)=ハワイ官約移民第1 号、広島市南区出身

灰田勝五郎  1855(明治18)年、21歳の時、広島県から移民(222人) の一員として渡航。厳しい農作業の合間に苦学し、米国本土の大学 に入学する。37歳で医師に。広島に帰郷しようとしたが、寄港地の ホノルルでペスト禍を目撃。現地医療の発展に終生を尽くす。
 排日運動に対し「調和が何より大切だ」と説き、人種の垣根を越 えてて慕われた。日本にハワイアンを紹介した人気歌手の灰田勝彦 は三男。

世界の文化財救済へ意欲

 平山郁夫(71)=日本画家・東京芸術大学長、広島県瀬戸田町 出身

平山郁夫  「人類共通遺産である文化財を守るためには、戦争をなくさね ば」。被爆体験が、いまだ衰えぬ創作意欲と、国際ボランティアへ の熱意を支える。
 94年から始めたカンボジア・アンコール遺跡群、中国・南京城壁 の修復事業のほか、タリバンの破壊でアフガニスタンから流出した 文化財の救済にも乗り出す。昨年8月、「アジアのノーベル賞」と いわれるマグサイサイ賞(平和・国際理解部門)を受賞した。


ひろしま情熱人列伝
市長退任後も「核廃絶」訴え

 平岡敬(74)=前広島市長、広島市西区在住

平岡敬  99年に市長を辞めた後、旧ソ連の核実験による被曝(ばく)者を 支援する「ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト」、カンボ ジア市民との平和交流を進める「ひろしまハウス建設センター」に 携わる。新聞記者、市長時代を通じて核廃絶を訴え続けた。「自分 の主張に責任を取る」として、第二の人生を国際ボランティアに費 やす。
 「日本の若者にとって、『平和』を自分の問題としてとらえるこ とは非常に困難。アジアをはじめとする世界の厳しい現実を見てほ しい」。若い世代と一緒に現地で汗を流すことで、ヒロシマの体験 の継承を図る。

衣服作り 基本に平和望む心

 三宅一生(63)=ファッションデザイナー、広島市東区出身

三宅一生  「衣服を作ることは人間と自然への賛歌なくしてはありえない。 その基本には平和を望む心がある」。90年の「第1回ヒロシマ賞」 受賞時、そう言葉を寄せた。母は原爆で大やけどを負い、4年後に 死去。自らもせん光を目撃した。
 多摩美術大を卒業後、26歳で渡欧。「一枚の布から」という着物 に通じる服作りなど西洋の価値観にとらわれないデザインで国際的 評価を得た。「冒険心と好奇心豊かに創造に励みたい。それが世界 へ、日本へ、そして若い人たちの未来へと役立つことになれば」

日本食の伝道師を目指す

 森本正治(46)=料理人、広島市で育つ

森本正治  「地球で通用する料理としての日本食の伝道師になりたい」。ニ ューヨークで最も予約が取りにくい日本食レストランの総料理長を 務めた自信が、そう言わしめる。
 出身は防府市。崇徳高校野球部でプロを目指すが挫折。広島市内 の寿司店などで修行を積み、29歳で渡米。日本食レストランを渡り 歩き、有名映画俳優らを顧客に持つ人気シェフに上り詰めた。98年 には、人気テレビ番組「料理の鉄人」に「3代目和の鉄人」として 登場、一躍人気者になった。