中国新聞
2002.6.4

空襲で炎上する街 今も脳裏に  視力と引き換えに得た洞察力

 映画、舞台、テレビでは、チョイ役から、主人公の引き立てま で、見事にこなす。あるときは神父役、あるときは猫背のサラリー マン…。「年を取っても、いろんな監督から声をかけてもらえて」 と三谷昇。芝居では、精神的なぜいたくを追求したい、という。
 文学座、現代演劇「雲」、そして演劇集団「円」と、新劇一筋の 役者人生でもある。交通事故で片目を失った時も、ずっと支えたの が、福山の小学校で机を隣にした、今の妻だった。次なる三谷は、 どんな役で私たちの前に姿を現してくれるのだろうか。

(文中敬称略)

「びんご人国記 ふるさと応援団」

俳 優
三谷 昇さん
(70)

 役者人生も、半世紀になる。ニューヨークやロンドンでも舞台を 経験した

Photo「三谷昇」
  みたに・のぼる
32年
福山市生まれ
51年
広島県立葦陽高を卒業後、文学座に入る
70年
黒沢明の「どですかでん」に出演
75年
演劇集団「円」の結成に参加
91年
「おろしや国酔夢譚」の海外ロケで、ロシアへ

 ニューヨークでの「はだしのゲン」は、現地でも好評だった。ど んな反響か心配だったけど。受験に失敗して、「文学座」に拾われ た。いくら才能があっても消える人は多い。僕は本当に恵まれてい ると思う。

 高校の先輩で、亡くなった友竹正則さんに誘われて、演劇部に入 った。高校三年生の時には、地元のコンクールで優勝した。二位が 上下高校の平幹二郎君だった。高校時代は、僕の方が才能があった んでしょうね。

 終戦前の福山大空襲は、今も鮮明に覚えているという。中学一年 生だった

 八月八日、B29の爆撃で、火の海になった。パンツ一枚で逃げ出 した。親兄弟ともはぐれ、芦田川の土手を逃げ回った。その芦田川 では、いつも父が投網をしていた。その時代に食べた魚の味は、炎 上する前の福山城の素敵な姿とセットで、ずっと忘れられない。仕 事柄、全国各地を回ったけど、街並みは今はどこも同じ。内装は変 えても、外観はそのままに残してほしい。

 「文学座」に入った三谷。芽が出るまでにはかなりの歳月を要し た

 入団十年目の二十九歳、自動車事故で視力が片方なくなった。こ れが、一回目の転機だったとすると、もう一つは、黒沢明監督の 「どですかでん」に呼ばれたこと。これで一人前と思ったのも束の 間、声がかかったのはポルノ作品だけ。実際に出演すると、現場は 活気に満ちていた。それまでは色眼鏡で見ていた自分が恥ずかしか った。

 昔は、才能がないとのコンプレックスもあったけど、今は、花に なる人もいれば、枝や葉になる人もいる、と思っている。自分を使 ってほしいと、売り込まない代わりに、誘いがあったら、首を横に は振らなかった。

 「先生、私今年、還暦です」―。亡き高校時代の恩師への追悼文 で、「おろしや国酔夢譚」ロケ地となったロシアについても言及し ている。ソ連解体のころである

 イルクーツクなど、激動のロシアに百日間も滞在したけれど、彼 らの表情はみんな明るかった。人間って、飢えている方が豊かなの でしょうか。豊かになれば、心は貧しくなるのでしょうか―。敗戦 直後の福山駅前のことを思い出して。

 せりふを覚えるのは、もっぱら電車の中という三谷。乗るのは、 急行から各駅停車に変わり、今は二往復を要することも。そんな三 谷にとって、芝居とは―

 一休さんのおまんじゅうと同じで、四つ、五つに分けて、どれが おいしいかと言われても同じ。どの作品にも、それぞれに愛着があ って…。もちろん全部消したいこともあるけど、努力と評価は必ず しも比例しない。

 少しかっこよく言えば、片目を失ったけど、逆に、役者として、 人間として物事を広く見ることができるようになったのかも。

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