中国新聞
2002.5.30

大きな存在だった小林画伯  遺志継ぎ 尾道に感性注入

 高橋玄洋ほど、運命的な「出会い」をした人はいないかもしれない。ふるさと尾道の大先輩の小林和作画伯、そして陶芸の道を勧めてくれた中川一政画伯。二人から学んだのは「何をしても同じ自分の人生。やりたいことを楽しもう」だった。
 かつて「視聴率の魔術師」とも呼ばれたが、その名声を自ら捨てた。そして選んだのは書画、陶芸の道に、さまざまな運動の世話役。「あなたは何」と聞かれた時、変化球で答える。「決める必要があるのかな。いやしい生き方だけはしたくないけど」

(文中敬称略)

「びんご人国記 ふるさと応援団」

作 家
高橋 玄洋さん
(73)

 尾道で過ごしたのはわずか四年。だが、作品の影響もあってか 「尾道の高橋」の印象が強い

Photo「高橋玄洋」
  たかはし・げんよう
26年
父の転勤先の松江市で生まれる
52年
尾道短大の第一期生として卒業
54年
早稲田大日本文学科卒業
85年
所沢市教育委員(2期8年)
98年
尾道市政100年で「特別功労者」表彰

 終戦後、父が尾道市の教育長の職に就いたので、家族も尾道に移 り住んだ。どう生きたらいいのか、方向を見失っていた。そのとき 出会ったのが、小林和作画伯。大きな存在で、陰に日なたに世話に なった。人間として、こんな大きな器の人がいるのかと思った。鉛 筆のような細い人生が凡人だとしたら、まるで土管のような人だっ た。

 作品で、印象に残っているのは「志都という女」。脚本だけでな く、小説にもした。テレビにも三回なった。尾道での生活を背景に したけど、まさに僕の放浪時代だったような気がする。

 脚本家になった高橋は「視聴率の魔術師」と評された。NHKの 朝の連続テレビ小説「繭子ひとり」の視聴率57%は、今も破られて いない。その栄光も名声も手放し、テレビの現場を離れた。五十二 歳だった

 睡眠時間を削られ、命も縮められて。一度しかない人生を、こん な風に使っていたなんて。こんなこともあった。自宅に来た四組の 原稿取りが、脱稿までと、マージャンを始めて、僕だけがずっと執 筆…。一時間ものの放送が、一週間に七本も重なっていた。

 どうにか無理を重ねていたとき、広島の放送局から原爆のドラマ を依頼された。でも、東京のキー局から「娯楽性を入れてくれ」と 言われ、その温度差は許せなかった。

 書画に陶芸に精を出す傍ら、地元の自然保護や街づくり運動など の世話役も務める

 もう四十年も住んでいる所沢市の市民憲章の原案を作ったことも あった。「市民は市のほこり」と第一条に書いた。「子どもを大切 にしよう」との文言も入れた。

 一方で、むなしさもある。人の出入りが激しくて、「十二年間で 人口が全部変わる」とも言われる。愛郷心が根付かない苦労もある けど、このむなしさに負けてはいけないと思う。それに比べて、尾 道は何と人間味のある町だろうか。

 尾道を舞台にしたイベント「グルメ海の印象派」も、高橋が音頭 を取った

 今年で十五回目になると思うけど、尾道の文化を発展させるため には、外からの感性や知性が必要と思った。いろいろな所から人を 呼んで、血清注射をするのがいい。昔は、小林先生はその役をして くださっていた。私自身も年一回は、必ず尾道に家族や知人を連れ て里帰りしている。

 尾道の実家は、今も空き家のまま残る。その尾道に必要なのは、 「新しく踏み出すバイタリティー」という

 周りを見回して、あっちがこうだから、こっちもというのが今の 風潮だが、自分自身で回るコマの生き方が必要と思う。どうして も、ベルトに乗っかかる生き方に流されがちだけど。時代、時代に 生きていく新感覚こそ、求められるのではないかな。尾道には。

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