私が、子どもから学生、社会人へと成長した昭和初期は、灰色の時代だった。軍部が台頭して政党政治が機能しなくなり、自由が徐々に奪われていった。自由の意味を分かりやすく表現すれば、言論の自由。言いたいことが言えず、逆らうと憲兵に連れて行かれる、といったようなことが起こっていた。
思い返しても、戦争中の苦労や、食べ物のないつらさはほとんど記憶にない。覚えているのは、自由が圧迫される時の苦しさ、つらさです。例えれば、空気がなくなっていく過程に似ているのではないでしょうか。いくらでもある時はありがたいとは思わないが、なくなると苦しくなる。気付いた時はもう遅い。すべてが失われ、死滅する。
最初の戦争の記憶は、一九三一年に起きた満州事変。小学校で、兵隊さんに送る慰問文を書いたのを覚えている。でも、当時の社会状況を理解していたわけではない。痛切に戦争を意識したのは三六年の二・二六事件だった。軍部台頭に対する不安を感じた。
翌年、日中戦争が始まって以降は、自由は現実になくなっていき、第二次世界大戦の敗戦によって日本は死滅寸前までいった。なぜこのような悲劇の道を歩んでしまったのか。その直接的な理由は、いまだに分からない。ただ、私たちはどんなことがあっても、自由が失われるような社会を再びつくってはならない。今も機会あるごとにこう言っているのは、あの時のつらさを知っているからなんです。 |
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| 「どんなことがあっても戦争だけはしてはいけません」。宮沢氏が若者たちへ語り継ぐ言葉である(東京都千代田区の個人事務所) |
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| 2・26機に軍台頭の不安 |
宮沢氏は大学生の時に初めて、真の「自由」を実感した。その地は、日米開戦二年前の米国だった。三九年、日米学生会議のメンバーとして訪米。思い知らされたのは、「敵国」の懐の広さだった。これこそが民主主義だと思ったという。
米国に向かう船で、日本の学生たちは、相手方との問答を想定し、毎日討論しながら、日本側の意見をしっかり統一していた。ところが、米国に着いて実際に討論を始めると、相手から私たちを擁護する意見が出てくる。「日本の言うことも、もっともだ」「アメリカも日本のことを考えるべきだ」といった具合に。
もちろん「日本が悪い」という意見もあった。しかし、こちらが反論すると「それもそうだ」という声が返ってくる。これでは議論が日米対抗にならない。初めて言論の自由を肌で感じた瞬間だった。「えらい国に来てしまった。こんな連中を相手に戦争しても勝ち目はない」と思った。民主主義を理屈では分かっていたが、日本とはあまりにも違っていた。
その後、戦争が始まり、日本の敗色が濃厚になったころは、大蔵省で働いていた。空襲で家が焼けた時は、目の前に焼夷(しょうい)弾が落ち、あっという間だった。家から大蔵省まで歩いて行く時に見た、焼け野原になった街とたくさんの死体は今でもはっきり覚えている。
四五年八月、広島への原爆投下を知ったのは、歩いて役所に出勤している時だった。B29が空からばらまいたビラを拾うと「広島に新しい爆弾を落とした」というトルーマン大統領のメッセージが書いてあった。
このころはもう、社会には悲壮感しかなかった。ですから、八月十五日、日本銀行で玉音放送を聞いた時、悔しさはもうなかった。最初に思ったのが、「ああ、今日から電気がつくなあ」ということ。電気のつく家はそう多くはなかったが、それが実感だった。
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異論認める度量こそ民主主義 |
| 米国での日米学生会議に向かう船上で記念撮影する宮沢氏(上から2段目、左から3人目)。到着した民主主義の国で初めて本当の「自由」を知った(1939年夏) |
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戦後、戦争放棄を掲げる平和憲法を持った日本は、日米安保条約を土台とする「軽武装国家」として、飛躍的な経済成長を遂げていった。そして二十一世紀に入った今、自衛隊の海外派遣、北朝鮮の軍事的脅威などを背景に、この国の進路が揺れている。
最近は、世論の右傾化やナショナリズムの高揚が言われているようだが、こういった風潮は何年かに一度は必ず起きる現象で、戦後初めてではない。私たちはその都度、それを克服してきた。しかし、今の状況はこれまでとはちょっと違うな、という思いもある。
例えば、イラクへの自衛隊派遣。復興支援のためであって、戦闘行為をするわけではないから憲法違反ではない。だが、隊員がイラクに向けて出発する様子がテレビで報道されているのを見ると、なんとなく戦前の昭和初期の日本をほうふつさせる気持ちはある。
もちろん、マスコミは派遣に対し批判的な報道もしている。それでも、日本を出て行く「兵隊さん」の姿が、頻繁に報道されれば、それをナショナリスティックな出来事と受け取り、大いに感激する国民もいる。やむを得ないことなのかもしれない。国民全体から過去の戦争の記憶が薄れていっていますから…。
私は日本人は、全体的に一つの方向にまとまっていきやすい国民と思っている。戦前は、国定教科書がこうした国民性をつくり上げる役割を果たしていた。戦後、教科書制度が変わって改善されると思ったが、どうもそうならない。日本人は、物分かりがいいもんだから、同じような反応をしてしまうんでしょう。本当は、一人ひとりがもっと個性的になっていいはずなんですがねえ。
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| モラル荒廃 規制の風潮招く |
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| 「戦後政治の生き証人」と評される宮沢氏が、半世紀にわたって国の進路を議論してきた国会議事堂。そこに席がなくなって1年余りが過ぎた |
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自民党を中心にした国政の舞台では、タカ派といわれる政治家たちの発言力が増している。ハト派の論客として存在感を示してきた宮沢氏は、危機感を持ちながらも、まだ日本の未来を悲観してはいない。
現代社会の荒廃は、戦後民主主義の「行き過ぎた自由」が原因だという意見をよく聞く。若者のモラルの低下を防ぐために、自由を規制しようとする動きが自民党内にあるのは事実だ。自由っていうものをあんまり粗末にするもんだから、そんな風潮になってしまう。
しかし、自民党は簡単な党ではない。自由を制限しようとするような意見を言う人の声は大きいから目立つ。でも一方で若い議員の意見は、そうばかりではない。日本の未来について、そんなに不安があるわけではない。
私は、長い政治家人生の中で何度か閣僚をさせてもらった時、春の入省式で新入生には必ず「戦争だけはしてはいけない」と言ってきた。この気持ちはまったく変わっていないし、今でも機会があればこう言い続けている。そのために必要なのが、「自由を守り抜く」ことだ。
「戦後の日本で一番いいことは」と聞かれれば、私は「自由があること」と答える。これこそが社会の活力だからだ。ですから、これからの時代を生きていく人たちは、自由の制限につながるような芽を常に摘み取っていく―その努力を怠らないでほしい。
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| 人のため社会のため不断の努力を |
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| 色紙を前に「大樹深根」の文字を一気に書き上げる宮沢氏 |
宮沢氏が筆で記した次世代へのメッセージ。そこに込められた強い思いは、自由を守る大切さである |
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次世代へ託すメッセージに、宮沢喜一元首相は「大樹深根(たいじゅしんこん)」を選んだ。数日、悩んだ末に筆をとった。本人が好んで記してきた言葉の一つでもある。
宮沢氏は一九九一年十一月、首相就任後の会見で自身の哲学を聞かれ、こう述べている。「生活を豊かにするために金を使うことは、それ自体悪いことではない。ただ、同時に人のために(尽くすことが)社会に対する自分の務めであるという考えが、出て来なければならない」
「大樹深根」は、この哲学を象徴した言葉ともいえる。
敗戦の荒廃から立ち直り、経済大国へと発展した日本。目に見える豊かさである「大樹」がしっかりと大地に立ち続け、枝葉を広げるには、見えない地中に深く張りめぐらされた「根」が必要である。その根こそが、社会に活力を生む「自由」にほかならない。
そして「自由」を守り、育てるという不断の努力、つまり「人のために尽くすという社会に対する務め」があってこそ、豊かな社会が生まれるという意味である。
モラルの著しい低下など、自由を粗末にしすぎて、逆に自由を制限しようとする風潮が生まれている今、「大樹深根」が発する警告はより重みを増している。 |