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中国山地
明日へのシナリオ
「点検・あれから18年」 阿哲・吉備高原地域(岡山県北西部)編
2002.4.5
 十八年前の連載「新中国山地」のその後をたどる特集は今回、阿哲・吉備高原地域(岡山県北西部)を取り上げる。観光地としての成長の芽が出始めた成羽町の吹屋と、自然保護の対策に決め手を欠いていた国の天然記念物、哲西町の鯉が窪湿原、そして農業の行く末に不安を抱いていた神郷町の農民作家。それぞれの軌跡は―。
(中国山地取材班)


 ◆当時の記事から(84年4月、要約、年齢は現在)

  六八年に小説「おれんの死」で農民文学賞を受けた神郷町釜村田口の太田忠久さん(73)。長男として高等小学校を卒業するとすぐ農業を継いだ。二十代後半で文学を志し、三十歳で上京。だが父の病気のため一年八カ月で帰郷。その後も農民文学とともに「米つくりの悲哀」「ムラの選挙」などルポも通して農村を描いてきた。農業の厳しさから「最後の農村を見届けることになるかもしれん」と予感していた。


ペンと農業風土・人 原点を再確認

■武将らの「気概」に希望託す

 太田さんは当時、高校生の長男に「農業を継ぐんだぞ」と言ってきた。そんな思いが記事では触れられている。その後を訪ねると、苦笑いが返ってきた。

 「そうですか。だめですね、私自身も、じゃあ残れとは言えなかった。この田口という集落を見たら分かるように、ほとんど田んぼがつぶれてしまっている状態ですよ」

荒れる田口集落の水田。14カ所程度あった小さな堤(ため池)も、もうほとんどつぶされ、数えるほどになった

 今、長男(35)は県職員。結婚して隣の新見市に住む。よく帰るし、すぐ駆け付けられる距離でもある。それなりの平穏な親子の日々と見えた。長女(37)も愛知県で結婚生活だ。妻嬰さん(68)と二人暮らし。こと二人の孫の話となると、熱が入る。

 田口集落は当時十三軒。その後、一軒が年取って子どもの住む町に出た。集落の水田を見回すと、かなりの部分がカヤやかん木に覆われていた。減反で植えられたヒノキ林もあちこちで存在を主張している。

 管理転作のためだろう、焼き払われただけの水田も目にした。ほ場整備も結局手付かずだったようだ。肝心の農業は、太田さんの描いた滅びの道を間違いなく進んでいる、そう思わざるを得ない光景でもあった。

 「減反で、ヒノキは金になると、どんどん植えましたね。それが気がついてみると木材不況で大暴落でしょう。ヒノキで田んぼは日陰になる。杉もだが、ヒノキは余計に水を吸い上げるから谷水は枯れる。いいことはない。だが、もう水が必要なくなったともいえるわけで」

 太田さん自身の農業は当時、減反三十アールを除いて水田六十アール、畑十アールに牛一頭。山林十五ヘクタール。今は十二アール一枚で家族が食べる分を作るだけという。十四俵(一俵六十キロ)は取れる。「うまい」と子や孫が喜んでくれるのが楽しみでもある。

 その後も寡作だが新聞、雑誌への評論なども含め執筆活動は続けた。単行本はその後三冊出し、計七冊になった。最新作は生まれ育った山村の風土と人間を先祖、家族、周囲の人々の哀歓を通して描いた「米とむら」(九六年、山陽新聞社)である。

 このころ、夜盲症で年少から弱かった視力が極度に悪化した。「これが最後かなあ」との思いが、執筆に自分の創作の土壌を再確認する作業としての重みを加えさせた。

 「米とむら」全六章の最終章は「ほろびゆく”むら”」とつけた。減反政策による米作の衰退は今や米づくりの心を失わせ、大切だったむらの人情や道義心の崩壊という、もっと深刻な問題を引き起こしていることへの憂いが実例をもって語られる。

自宅前に立つ農民作家、太田忠久さん

 弟に「書くものに社会性が足りない、もっと厳しく農政批判を」と言われる場面がある。太田さんは答える。「そうかもしれんが、国も大筋で政治は間違うとらん。山村の農業は苦しい。だが経済成長のない昔ながらの閉ざされた山村だったら、二男坊、三男坊の大社会問題が起きる」

 農政批判は随所に出る。だが他の農民作家と違って、常に農政と対置しながら村を語るという姿勢は強くない。

 「私は根っから小説好き、それも時代小説がね。東京のころは雑誌に一本五千円でよく書いたものです」。「渡り鳥帰る夜」「紋三郎笠」「糸平子守唄」「大江戸の夜」…。当時の作品名を面白そうに一つ一つ挙げてくれた。

 その集大成が、毛利氏に敗れた出雲の戦国大名尼子氏の遺臣、山中鹿介幸盛の生涯を描いた「三日月の影」(九一年、ハーベスト出版)だ。

 尼子再興をかけて毛利と戦う忠臣ぶり、逆境に打ち勝つ不屈の精神…。祖父の物語りや小学校の「国語読本」に胸を躍らせ、「いつかは」と思っていた素材である。さいわい日本農業新聞に二百五十一回の連載の機会を得た。

 「戦前は忠君愛国、滅私奉公の代名詞。今はあまり顧みられないが、あの気概、生き方は痛快、立派ですよ。尼子の月山富田城が出雲の広瀬、鹿介の最期の地が備中高梁だから身近でもあります」

 山中鹿介と同じ気概に感じて執筆した郷土の鉄山師「伝記 太田辰五郎」(初版七四年)の再刊(九一年、太田辰五郎顕彰会)のあとがきで、太田さんはこう書く。

 「過疎山村の悲哀を書く反面、山中鹿介や太田辰五郎ら歴史物を書くのは、中国山地に生きたその人たちの強烈な生きざまが、村おこしの何かに役立たないかと願う気持ちがあるからだ」

 司馬遼太郎はもっぱら幕末・明治人の気概を描くとこで、戦後失われた日本人の誇りを取り戻そうとした、といわれる。農村に根を張った作家・太田忠久も気概は好きだが、負の部分から目をそらすわけにはいかなかった、ということだろうか。


 ◆当時の記事から(84年4月、要約)

 列島改造ブームのさなか「工場用地に」と伊藤忠商事が買収した哲西町矢田の山林四十ヘクタールを八三年末、町が買い戻した。オイルショックで計画がつぶれたうえ、七七年に県の天然記念物、八〇年には国の天然記念物に指定された「鯉が窪湿原」を含み、開発には厄介な土地でもあった。町は「西の尾瀬」として観光の目玉に。だが「自然に手を加えるな」という保護策だけでは湿原は荒れ始めたのだ。保護の決め手。それが難問だった。


戻ってきた湿原保護策 苦労実る

■資料館など開設

 湿原は今、年間二万人を呼ぶ町観光の立派な目玉になっていた。国道182号沿いの道の駅も「鯉が窪」。鯉が窪湿原祭りに鯉が窪マラソン大会…。「哲西町の名前より鯉が窪の方が売れてるでしょうなあ」と浅井幹夫さん(58)が笑った。

 浅井さんは当時、湿原管理のため企画広報課に設けられた自然保護係の初代係長だった。その後七年そこを離れ、九四年に町教育委員会に移り、現在事務局長。湿原の管理は教委に移っており、浅井さんは引き続き湿原とかかわっている。

人工的に再生した湿原と浅井さん。バリアフリーの遊歩道もセールスポイントだ

 湿地面積三・六ヘクタール。二百種を超える植物が自生し、絶滅危ぐ種のオグラセンノウなど、標高五五〇メートルの中層湿地としては珍しい種類も多い。周囲も含めて約五十ヘクタールの区域が「鯉が窪湿性植物群落」として国の天然記念物に指定されている。

 だが湿原周辺はもともと住民が放牧したり、木を切ったりしていた。そこに人の手が入らなくなって、コナラ、ハンノキ、アカマツが湿原を侵食し始めたのだ。

 「鯉が窪の自然は里山的自然なんです」と浅井さん。湿原の回復は、「保護は現状維持」という文化庁に、適切な人為を加える必要を認めてもらう過程でもあった。

 一つ一つ許可を申請しながら手を打った。九七年にはコナラ五十本を試験伐採。その年、理論武装を、と専門の学者による「鯉が窪の自然を考える会」を開き、その意見によって乾燥化のもとになっていたササ、ススキを除去した。

 翌九八年には常設の「鯉が窪湿原湿性群落調査委員会」を発足させる。水流を平均化するための土のうによるせき止め工事、日照確保のための周囲の樹木の伐採…。こうしてほぼ目的は達成できたという。

 そして今、浅井さんが「大きな出来事」という新しい試みに取り組んでいる。自然水路の侵食が進んで湿原全体へ水が至らなくなって荒れていた下流部の四・二ヘクタールを、人工的に再生する「保護増殖事業」である。

 二〇〇一年度に国と県の七割補助で一億三千八百万円を投じて、樹木の伐採、水路整備、一時移植や種を採取していた湿性植物の再移植を行い、ほぼ湿原らしさを取り戻してきた。バリアフリーの遊歩道も設けた。入り口には湿原を模型やビデオで観賞できる資料館もオープンした。

 「ここで気楽に湿原を体験してもらい、本格的にと言う人には、さらに奥の湿原を歩いてもらう。そんなセット方式の試験的な例にしたい」

 だから移植にはボランティアを募った。「触ってはいけない」ではなく、自分で植えた植物が育つのを見て、より自然保護の意義を感じとってもらえるのではないか、との願いからだ。

 五月にはリュウキンカから今年最初の花が咲き始めるはずだ。  


 ◆当時の記事から(84年4月、要約)

   かつて銅山と、その副産物の酸化鉄を成分とする顔料のベンガラ生産で栄えた吹屋。戦後細々と続いた生産も七二年に銅、七四年にベンガラが中止に追いこまれた。だがベンガラ独特の朱色で塗られた豪壮な屋敷や町並みは残った。おかげで吹屋は七四年に岡山県のふるさと村、七七年に国の重要伝統建造物群保存地区に指定され、観光地としての新たな道を歩み始めた。客は増え始めていたが、商売になるにはまだ少なかった。


ベンガラ格子の町名売れ 店軌道に

■道路整備へ期待

伝統の町並みにほとんど変化はなかった。それが保存地区というものだろう。当時取材した吹屋唯一の宿泊施設、民宿「ふきや山荘」と向かいの食堂兼喫茶「いろり」も建物は昔のままだった。
吹屋の町並みは今も変わらない。3月23日の土曜日午前、まだシーズンオフとあって観光客の姿はまばらだった

 いずれもUターン者が始めたばかり。民宿は泊まり専用、食事はいろりで、と分業体制を敷いていたのが新鮮に響いたものだ。だが今、看板は見当たらなかった。

 いろりは町並みの入り口に移動し、大きくなっていた。「昭和から平成に代わるころかなあ、どんどん人が来るようになって、狭くなったんです。これなら何とかやれると、思い切って」。主人の小川哲さんが(59)が説明する。

 建物は倉庫として使われていたのを改造した。年代は「新しいね。昭和二十年くらいかな」。江戸時代から明治、大正建築が目立つ吹屋では、その感覚が分かる。広さは「四間(一間一・八メートル)に六間、一部は二階…」。計算してみると元の七倍にもなった。

 後で成羽町観光協会吹屋支部に聞いてみると、確かにその後の観光客の伸びは著しい。八三年度の一万五千人が八九年度、つまり平成元年度には十万五千人、九五年度は十四万人にという具合だ。だが、そこからは減少に転じた。二〇○○年度は七万七千人とピークの半分である。

 「バブル崩壊、不況のせいだね。どこも同じと思うよ」と小川さん。妻の美富里さん(55)が「課題があるんですよ」と継いだ。小川さんが「そうそう」とうなずいた。

移転で大きくなった「いろり」食堂と小川産。18年前も写真に登場してもらった

 一年を平均すれば食べられる感じにはなったが、今も十二月から三月まで観光客はがたっと減る。目立つのは中高年の写真好きくらい。吹屋の町中を通る観光バス泣かせの狭い幹線道路のバイパスは、やっと計画に乗ったが、取りつけ道路も改良すれば、団体客がもっと来るはず。これが二人の願いだった。

 民宿の主人、柴田収二さん(79)の消息を小川さんに聞いた。「今は倉敷ですよ。民宿のそばの蔵を建て替えて資料館をやってるが、冬場は閉館です」

 訪ねると「柴田平和祈念館」と「喫茶珈琲館」「四月中旬まで閉館」の看板。留守だと思ったら、小型乗用車が横付けになって、引き戸が開いていた。四月二十日の今シーズンの開館準備だという。十一月まで開くが、管理は地元の女性に任せ、自分は月一、二回程度のぞくだけという。

 民宿の廃業は九三年春オープンした第三セクターの体験宿泊施設「ラ・フォーレ吹屋」がきっかけだったという。「あのころは宿泊施設はうちだけ。ラ・フォーレができて役目は終えた。区切りでしたね」

 柴田さんは、旅行雑誌の「るるぶ」や「まっぷる」が今では、吹屋を必ず一ページか一ページ半の特集で組む、と教えてくれた。「よそとは扱いが違うんですよ」。いかにもうれしそうである。

 それにしてもなぜ民宿から祈念館へ? 「私は沖縄戦の生き残りですよ。あんな惨めな戦争がもう二度と起きんように、若い人に見てもらいたいと思ってね」。熱っぽい口調で語り始めた。

 当時は陸軍少尉。海上挺身基地第二大隊本部付通信隊長として、米軍の最初の攻撃目標となる慶良間列島の阿嘉島へ。攻撃は四五年三月二十六日から始まり、慶良間の将兵二百四十人のうち八十三人が戦死した。米軍はその後、沖縄本島攻撃に移り、降伏したのはやっと終戦後の八月二十三日だったという。

 内部には、慶良間の海をぎっしり埋めた米艦船の手書きの戦闘配置図に、冬用の将校軍服、日米の弾丸、写真、百冊を超える戦記本…。ひときわ新しいのが糸満市摩文仁に二〇〇〇年四月、開館した沖縄県平和祈念資料館の写真と、額に入った稲嶺恵一知事の感謝状だった。

 請われて、沖縄戦で身に着けていた夏の軍服や将校図嚢(ずのう)、戦闘時にわずか十日間走り書きした日記、柳行李(やなぎごうり)など十五点を資料館に寄付したのだ。その一点一点の写真も展示してあった。

 「いつか沖縄戦の資料を靖国神社へ寄贈したい」。それが願いだ。標高五五〇メートルの山間地にもまだ戦争の記憶が刻み続けられている。


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