◆当時の記事から(84年4月、要約、年齢は現在)
六八年に小説「おれんの死」で農民文学賞を受けた神郷町釜村田口の太田忠久さん(73)。長男として高等小学校を卒業するとすぐ農業を継いだ。二十代後半で文学を志し、三十歳で上京。だが父の病気のため一年八カ月で帰郷。その後も農民文学とともに「米つくりの悲哀」「ムラの選挙」などルポも通して農村を描いてきた。農業の厳しさから「最後の農村を見届けることになるかもしれん」と予感していた。
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■武将らの「気概」に希望託す
太田さんは当時、高校生の長男に「農業を継ぐんだぞ」と言ってきた。そんな思いが記事では触れられている。その後を訪ねると、苦笑いが返ってきた。
「そうですか。だめですね、私自身も、じゃあ残れとは言えなかった。この田口という集落を見たら分かるように、ほとんど田んぼがつぶれてしまっている状態ですよ」
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| 荒れる田口集落の水田。14カ所程度あった小さな堤(ため池)も、もうほとんどつぶされ、数えるほどになった |
今、長男(35)は県職員。結婚して隣の新見市に住む。よく帰るし、すぐ駆け付けられる距離でもある。それなりの平穏な親子の日々と見えた。長女(37)も愛知県で結婚生活だ。妻嬰さん(68)と二人暮らし。こと二人の孫の話となると、熱が入る。
田口集落は当時十三軒。その後、一軒が年取って子どもの住む町に出た。集落の水田を見回すと、かなりの部分がカヤやかん木に覆われていた。減反で植えられたヒノキ林もあちこちで存在を主張している。
管理転作のためだろう、焼き払われただけの水田も目にした。ほ場整備も結局手付かずだったようだ。肝心の農業は、太田さんの描いた滅びの道を間違いなく進んでいる、そう思わざるを得ない光景でもあった。
「減反で、ヒノキは金になると、どんどん植えましたね。それが気がついてみると木材不況で大暴落でしょう。ヒノキで田んぼは日陰になる。杉もだが、ヒノキは余計に水を吸い上げるから谷水は枯れる。いいことはない。だが、もう水が必要なくなったともいえるわけで」
太田さん自身の農業は当時、減反三十アールを除いて水田六十アール、畑十アールに牛一頭。山林十五ヘクタール。今は十二アール一枚で家族が食べる分を作るだけという。十四俵(一俵六十キロ)は取れる。「うまい」と子や孫が喜んでくれるのが楽しみでもある。
その後も寡作だが新聞、雑誌への評論なども含め執筆活動は続けた。単行本はその後三冊出し、計七冊になった。最新作は生まれ育った山村の風土と人間を先祖、家族、周囲の人々の哀歓を通して描いた「米とむら」(九六年、山陽新聞社)である。
このころ、夜盲症で年少から弱かった視力が極度に悪化した。「これが最後かなあ」との思いが、執筆に自分の創作の土壌を再確認する作業としての重みを加えさせた。
「米とむら」全六章の最終章は「ほろびゆく”むら”」とつけた。減反政策による米作の衰退は今や米づくりの心を失わせ、大切だったむらの人情や道義心の崩壊という、もっと深刻な問題を引き起こしていることへの憂いが実例をもって語られる。
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| 自宅前に立つ農民作家、太田忠久さん |
弟に「書くものに社会性が足りない、もっと厳しく農政批判を」と言われる場面がある。太田さんは答える。「そうかもしれんが、国も大筋で政治は間違うとらん。山村の農業は苦しい。だが経済成長のない昔ながらの閉ざされた山村だったら、二男坊、三男坊の大社会問題が起きる」
農政批判は随所に出る。だが他の農民作家と違って、常に農政と対置しながら村を語るという姿勢は強くない。
「私は根っから小説好き、それも時代小説がね。東京のころは雑誌に一本五千円でよく書いたものです」。「渡り鳥帰る夜」「紋三郎笠」「糸平子守唄」「大江戸の夜」…。当時の作品名を面白そうに一つ一つ挙げてくれた。
その集大成が、毛利氏に敗れた出雲の戦国大名尼子氏の遺臣、山中鹿介幸盛の生涯を描いた「三日月の影」(九一年、ハーベスト出版)だ。
尼子再興をかけて毛利と戦う忠臣ぶり、逆境に打ち勝つ不屈の精神…。祖父の物語りや小学校の「国語読本」に胸を躍らせ、「いつかは」と思っていた素材である。さいわい日本農業新聞に二百五十一回の連載の機会を得た。
「戦前は忠君愛国、滅私奉公の代名詞。今はあまり顧みられないが、あの気概、生き方は痛快、立派ですよ。尼子の月山富田城が出雲の広瀬、鹿介の最期の地が備中高梁だから身近でもあります」
山中鹿介と同じ気概に感じて執筆した郷土の鉄山師「伝記 太田辰五郎」(初版七四年)の再刊(九一年、太田辰五郎顕彰会)のあとがきで、太田さんはこう書く。
「過疎山村の悲哀を書く反面、山中鹿介や太田辰五郎ら歴史物を書くのは、中国山地に生きたその人たちの強烈な生きざまが、村おこしの何かに役立たないかと願う気持ちがあるからだ」
司馬遼太郎はもっぱら幕末・明治人の気概を描くとこで、戦後失われた日本人の誇りを取り戻そうとした、といわれる。農村に根を張った作家・太田忠久も気概は好きだが、負の部分から目をそらすわけにはいかなかった、ということだろうか。
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