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中国山地
明日へのシナリオ
「点検・あれから18年」 備北地域編
2002.10.20
 十八年前の連載「新中国山地」のその後をたどる特集は今回、広島県の備北地域を取り上げる。低迷する林業に、近代的経営手法で挑んでいた布野村森林組合の若手組合長は今、村長として合併時代の荒波の中に。豊松村のトマト農家は念願の規模拡大を実現。「ひばごん丼」で売る西城町の農家の主婦グループの食堂は、地域にしっかりと根を張っていた。
(中国山地取材班)
「民の論理」掲げ村長に

 ◆当時の記事から(85年2月、要約、年齢は現在)

 布野村森林組合は、組合長の梶川孝司さん(62)を先頭に、とにかくよく働く。重機を駆使し、育苗、造林、伐採から作業道の開設、シイタケ生産など事業取扱高は五億円余(一九八三年度)と、十年前のほぼ十倍。近隣の森林組合の中では群を抜く存在だ。オフィス機器も導入し、「山仕事のイメージを変えたい」という梶川さん。次の目標は、コスト競争に打ち勝つため、傾斜地で使える伐採・搬出用の重機の開発だった。


森林組合のけん引車 財政に限界 合併にらむ

■重機開発の夢はかなわず

 村役場は森林組合の事務所から五百メートルほど南にある。梶川さんがその主に
「行政に民間の論理を」と、森林組合の組合長から村長へ転身した梶川さん(右)。来春で1期目が終わる(布野村役場
収まったのは統一地方選の年、一九九九年四月である。

 思いは、森林組合で培った経営感覚を大きな場で試したい、ということだったようだ。「一言でいえば、前例主義の行政に民間の理論を持ち込まんといけん、と思いまして」

 といっても村長を志してからは、もう八年が過ぎていた。始まりは九一年。「負けるはずはない」と思っていた新人同士の一騎打ちは、わずか四十一票差で梶川さんの敗北に終わる。二回目の挑戦で三選を目指すライバルと再び対決。今度は「勝てる」と踏んだところが意外と苦戦し、四十五票差でかろうじて振り切る立場になった。

 それにしても、なぜ八年も待ったのですか。「賢者は歴史に学ぶ、と言いますか、戦術的な意味ですわ」と面白そうに説明し始めた。

 「二期目の首長には、よくよくケチでもついていない限り勝てないもんです。ところが負けた方は、なにくそ、とすぐまた出たがる。この辺でも、そうしてまた負けた人をよく見てきた。同じ轍(てつ)を踏むことはない」

 □ ■ □

 我慢の八年の始まりである。選挙に出るため非常勤になっていた組合長は結局、九四年二月まで務めた。そして「五年間の浪人生活」へ入る。

 組合長として最後の事業年度となった九三年、組合の取扱高はピークの五億六千四百万円を記録する。その勢いで今度は、自営の「純粋林業家」として、しゃにむに働くことになる。

 「食べていかにゃあいけんのですけえ、そこいらのように、ちょろちょろやるんじゃコトにならん」と、夫婦で丸太の切り出しに精を出す。

 つらい労働に耐えた子どものころからの思い出が刻まれた、先祖伝来の持ち山が六十ヘクタール。チェーンソーや搬出用の重機を使い、毎年、八トン車で四十台から多い年は八十台分も出荷した。

 外材攻勢に不況。国産材の相場は下がる一方だったが、振り返ってみて思う、という。「まだあの時代は山を切って、それで食べていけた。今、村長を首になったら、もう食べていけません」

 □ ■ □

 何が変わったのですか。「乾燥材、それも集成材じゃないといけんという。林業の様相が変わったんですわ」。収縮したり、曲がったりしない材質が求められるようになってきたのである。

 当時、梶川さんは、布野の木は有力産地に質では負けるが、価格差はコストを下げることでカバーできるとみていた。

 そのために目指した重機の開発だったが、結局、実現はしなかった。あれから開発に乗り出すメーカーも出始めたが、林業の方が駄目になってしまったという。

 大小はあっても同じ形態の水田と違って、山は場所によって傾斜も違えば、岩もある。機械の大量生産にはもともと向かない。需要が落ちればメーカーの開発意欲が鈍るのも早かった。

 「民の論理を」と乗り込んだ、六百三十戸、二千人、職員四十六人(村教委を含む)の村行政の世界。組合経営とはどう違いましたか。

 「森林組合も純民間とはいえないが、こちらは何をやるにも補助金、起債、認可で、ほとんど身動きがとれん。その意味では面白みがないのかもしれない」と率直だ。

 □ ■ □

 専務理事の三年も含め、二十四年も経営に携わった森林組合とは、どうも勝手が違った。要は自治体が共通して抱える財源問題である。

 村の本年度の一般会計当初予算は約二十億円。重複分を除いて特別会計と合わせて三十四億円程度必要だが、自前の財源は一割程度にすぎない。地方交付税が削減され、先細りは目に見えている。

 「何をつくる、何をしてあげる、という時代ではもうない」という認識を職員と村民に求める意識改革にまず腐心しているのが現実という。

 では行政は何をすれば―。「不安の時代、何かあったら役場にすぐきんさいと、村民の不安や不満を除くきめこまかいサービスを…」

 村は今、三次圏域八市町村の法定合併協議を進めている。「自前でやっていく自信がある。それが組合員のためだ」と、八八年の三次市と双三郡の森林組合の合併には参加しなかった梶川さん。今度ばかりは「やむを得ない」と、村民の説得に回っている。

 来春の選挙に出るかどうかの意思表示はまだしていない。だれが出ても最後の布野村長になるだろう。

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 ■採用の悩み解消 取扱高は先細り 布野村森林組合

 「木を切って経済的に成り立つ時代ではないとなると、森を守るにはだれがコストを負担するかですよ。今の組合長も思ってますがね」

国道54号そばの布野村森林組合の事務所。1983年の建設で、前回の取材当時のままだ
 そう言って、都市住民との交流の地道な拡大、企業の参加を求めるため環境コストの減税措置の必要など、アイデアを挙げる梶川さんの話を聞いた後、現組合長の小林正一さん(60)を訪ねた。

 梶川さんが村長選に打って出た九一年の一月、役場の職員から参事に呼ばれた。組合長歴は来年二月でもう三期、九年になる。就任以来、広島県内十八組合で「一番若い組合長」である。

 仮に組合長を続けることになれば「次の三期目には結論を出さんといけん」というのが合併問題。その悩みは役場とよくにていた。

 「森林組合は、農協もだが半官半民みたいなもんで、国やら県やら市町村が弱りゃあ確実に弱体化してきまさあね」

 木を切り出して稼ぐ林産事業が強みだった布野村森林組合も、材木相場の下落に加え、大きく依存していた国や県の造林補助事業が、ピークの半分くらいに減って苦しくなってきた。

 不況対策で増えた二〇○○年に五億円台を回復した取扱高も、昨年は三億七千万円と激減し、初めて赤字を計上。創立五十年の今年は三億円を切る見通しという。

 「合併したところも、してないところも同じようにしわいはず」という小林さん。梶川組合長の時代と違って、毎年三人程度の採用も「なぜか若者に人気があって」苦労はなくなった時代だけに、仕事の先細りを残念がる。

 林業家の正組合員五百四十九人、職員約四十人の小さな森林組合。「やっていかれれば、単独が組合員のためにはいいに決まっている」。そう思いながらも、小林さんは合併がもう避けて通れないと実感している。


団地開設 大型化を実現
 ◆当時の記事から(85年2月、要約、年齢は現在)

 大阪市場の夏秋トマトの市況をリードする豊松村のブランドは「マルトヨ」。一九八〇年、出荷体制を農協に一元化して基盤を固めた。小田忠四郎さん(62)、てる子さん(53)夫婦の生産者番号は「マルトヨの七番」。雨よけハウス栽培をいち早く取り入れた川東地区八戸の農家の一人だ。規模拡大のため機械選果の導入を主張しているが、先輩たちは「品質が落ちる」と慎重である。小規模産地のままか大規模産地への脱皮か。機械選果はマルトヨの命運を左右するかもしれない。


トマトの村 Tターン支援 活気再び

ハウスの中でトマトを収穫する小田さん。共同選果場ができて、作業は格段と楽になった(豊松村中平)

 小田さんのトマト畑は自宅周りの転作田から、五百メートルほど離れた高台に移っていた。県道からの取り付け道路を上り詰めると、選果場を取り囲むように一面、何棟もの大型ハウスが広がってきた。

 村が開設したトマト団地「アグリパーク陽光(ひかり)の里」。ネーミングがしゃれている。小田さんは、ここで大型経営を営む十二戸の入植者第一号である。「選果場のすぐそば」とは聞いていたが、同じような景色に、入り口を間違えて迷ったあげく、たどり着いた。

 奥さんが「まあ食べてみてください」と採り立てのトマトを数個、ハウスの中のテーブルに置いていってくれた。甘い、としか言葉を思いつかないが、味は抜群である。

 だが色づきはまだ。最近は真っ赤な完熟トマトがはやっているようですが、と聞いてみた。

 「いや、トマトはこのころが一番うまい。適度の酸味があってこそ、甘味も効いてくる」と小田さん。

 □ ■ □

 入植したのは一九九七年。取材当時から十二年たっていた。「ここができんだったら、規模はもう、あのころの三分の一もないでしょうよ」

 その後、小田さんは仲間を集めて選果場造りの話し合いを始めた。だが費用がかかり過ぎて断念。九一年から一期、村議に出て村に働きかけた。そのうち持ち上がったのが、花き団地構想の土地を、トマト団地に転換する今の計画だったという。

 「つくるなら日本一の団地に」という小田さんたちの願いを村に聞いてもらい施設も充実。小田さんに続き、四年かけて順次入植が進んだ。

 千二百四十万円の自己資金を用意した一大投資。二十二アールだった経営面積は四六・八アールと、二倍以上に広がった。間口八メートル、長さ六十メートルのハウスが五棟、幅は同じで長さ五十七メートルのハウスが同じく五棟。ここで夫婦と娘の千寿香さん(33)、パート三人が六月の定植から、十一月までの収穫シーズンを働く。

トマト団地「アグリパーク陽光の里」。左上の共同選果場のある地域のすぐ下が小田さんのハウスだ
 といっても以前より余裕は出てきた。「土耕栽培のおかげです」。ほ場にめぐらせたパイプに肥料と水を混合して適時に流す。しかも全ハウスが一カ所で集中管理できるのだ。光と温度センサーで、屋根の覆いも自動開閉になった。

 収穫も、十二キロ入るコンテナに規格外を除いてどんどん詰める。そのまま選果場に出せば、機械が色づきから、大きさ、等級を選別して、その日分の伝票が打ち出される。

 伝票の生産者番号は今も「7番」だった。だが、市場にはもう出ない。共同選果になって「マルトヨ」ブランド一本になってしまった。

 □ ■ □

 ただ「小田さんのトマトを」という消費者もいる。「その時はこれを入れて送るんです」と照れくさそうにビラを見せてくれた。カラーコピーに団地の遠望写真を載せ、「ちゅうちゃんちのトマト」とあった。

 当時、目標にしていた八けた農業は、千九百五十万円までいった。最近は単価が下がり、二千万円の大台超えは微妙だという。

 団地は入植者十二戸のうち八戸がIターンということで、話題を呼んでいる。農家の高齢化が進み、地元からの応募が振るわず、全国に向けて公募したのである。Iターンの指導は小田さんたち川東地区の農家があたった。

 当時、五十九戸あった村のトマト農家は、九四―九七年に五十戸前後まで落ち込んだが、昨年は七十六戸。栽培面積は一一・六ヘクタール、販売額二億八千万円と、着実に盛り返している。

 

 ◆当時の記事から(85年2月、要約)

 西城町三坂。米子に抜ける国道183号沿いに「おふくろの店」があった。正式には三坂特産品センター「峠の茶屋やまびこ」。山菜の漬物などの特産品作りに取り組んでいた、地元の生活改善グループの農家の主婦四人が、前の年の一九八四年六月に開いた。投資額千六十六万円。県の補助を受けたが半額は自前である。漬物などの特産品販売と食堂・喫茶。慣れない客商売に「自信を持とうよ、誇りを持とうよ」と言い言い歩み始めていた。


おふくろの店 寄り合い拠点に育つ

■嫁の代へ継承願うメンバー

調理場で語らう峠の茶屋やまびこのメンバー。左から定木さん、前田マツ子さん、前田サキ子さん
 ご飯の上に載せた山菜や鶏肉のそぼろ煮、西城特産の山芋などをワサビを加えてかき混ぜて食べる。適度なだしの味。すっと胃袋に納まっていく感じだ。やまびこの売り物、八百円の「ひばごん丼」は今も人気メニューである。

 二日酔いによさそうだ、と思っていると、「あっさりしてるんですが、若い人にも結構ファンがいます」と、会計担当の前田マツ子さん(62)。「小学校のお別れ会も、ひばごん丼よね」と定木幸子さん(78)が話を継いだ。

 地元の三坂小学校では卒業式の後、六年生と五年生、先生が寄って食事をともにする。老人会から消防団、祭りの会合にと、やまびこは地域のよりどころとして欠かせない存在になっているようだ。

 「ひばごん丼」の看板が目立つ建物は当時のままだ。中年男性が入ってきた。「そば定食ください」。食事の責任者の前田サキ子さん(69)がまず話の席をたって、調理場へ向かった。

 今で言えば「女性起業家」となるのだろう。一人が体調を壊して外れ、実働メンバーが三人になったのは寂しかったが、素人食堂の経営はまずまず順調だった。

 すぐそばに九五年、陸上競技の訓練センターも目指すクロカンパークが誕生。合宿の料理を引き受けるようになったのも追い風になった。

 「器用じゃないから」とメニューは創業時のまま。めん類、牛丼、中華丼、カレーライスなどほぼ二十種類。売り上げは一千万円程度を確保し、八時間労働で日当四千八百円を支払う。まだ赤字は出していない。

 「役場の指導もあって」、八五年四月に有限会社にしたのが変わったくらい。四人とも取締役である。定木さんは代表取締役だが、書類には組合長としている。「ほんとは社長さんなんじゃね」と、二人の前田さんがちゃかした。

 備北地方にはその後、ワニ(サメ)料理で売る口和町の「まんさく茶屋」をはじめ、主に生活改善グループの活動がきっかけになった食堂が相次いで誕生した。
18年前そのままの峠の茶屋やまびこ。名物「ひばごん丼」は人気メニューとして定着した

 その八軒が九七年に初めて一同に会し、共同キャンペーンを始めた。「比婆・庄原の8つのかあさん茶屋」と銘打って、各自の料理をアピールするパンフレットを発行。それを手に茶屋を回るファンも増えている。

 第一号ということで、やまびこのメンバーは当初、十年くらい各地に講演に招かれた。「原稿をただ読むだけで、冷や汗ものでしたね」とマツ子さんは当時を振り返る。

 「私はね、はあ辞めようかと…」。最年長の定木さんが言いかけると、マツ子さんが止めた。「またそんなこと言う。辞めてもろうちゃあ困るんよ」

 皆の次の目標ははっきりしている。四人のお嫁さんがそろって後を継ぐこと。「それまで借金を残さんように頑張ろうね」。そう申し合わせている。


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