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2002.7.11
十八年前の連載「新中国山地」のその後をたどる特集は今回、大山・蒜山地域を取り上げる。西の軽井沢と銘打った観光地、蒜山高原で本格的な観光施設づくりを模索していた若者グループは、夢を実現。大山の自然と商売のはざまに身を置きながら、カメラで黙々とチョウを追っていた旅館経営者。小さな集落の寺を維持するため、経営に知恵を絞っていた若手住職も、それぞれ自分の道を着実に進んでいた。
(中国山地取材班) |
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◆当時の記事から(84年9月、要約)
西の軽井沢として売る観光地、蒜山高原の岡山県川上村で、若者グループ「金曜会」(二十人)が活発に活動していた。蒜山経済の三本柱、観光とダイコン生産、ジャージー酪農にかかわる者が「お互いの垣根を低くして村づくりを」という異業種交流。長期的に観光客を呼べる本格的な施設づくりの構想を描き、植えて三年目の観光リンゴ園で助走を始めていた。だが資金手当てなど、実現への仕掛けづくりはまだ模索段階だった。
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| 若者グループ金曜会 | 5つの三セク施設開業 情熱胸にリーダー奔走 |
金曜会の代表だった清水文明さん(60)の事務所は、役場や商店が集まる村の中心部、国道482号沿いに当時のまま建っていた。「蒜山別荘管理株式会社」の看板もそのままである。
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| 蒜山三山を望む蒜山ハーブガーデン「ハービル」を見回る清水さん(右)と三セクの総支配人藤田さん。ラベンダーは今月に入って花をつけ中旬が最盛期になる(6月中旬、岡山県川上村西茅部) |
早速、構想はどうなりましたか、と尋ねた。
「三セクで、五つ造りました。まず食堂から…」。清水さんが次々に施設の名を挙げ始めた。実現させたのである。
「議会に人を送らんと何もできん」と仲間に推され、取材の三年後の一九八七年四月、清水さんは村議選で初当選する。「待ってました」と観光施設造りのための第三セクターの設立を提案して回る。千百文字にわたる設立趣意書は自分で書いた。
「…建設中の中国横断自動車道が既に開通している縦貫道に結節するという時代を目前に控え…新しい視点で総合的な産業振興と観光基盤を整備し、その効果が地域すべてに波及する方策を…」
気負いもにじむアピールに町と議会、農協がこたえ、三セク「グリーンピア蒜山」は九〇年三月に設立にこぎつける。
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九二年十二月に開通を控えていた米子道は、村民の「やろう」というムードを盛り上げた。続いて九七年三月には高速網が高知まで延びる。蒜山インターには客を呼び込むストロー、としての期待が集まったのである。
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| 三セクの観光施設第1号号「ウッド・パオ」。早くから開けた観光エリア、三木ケ原にある。中央奥は休暇村蒜山高原 |
後で会った村議会事務局長の多久間稔さん(53)が「放っておいたら時速百キロで客がよそに逃げる、という殺し文句で押し切ったんです」と、当時の雰囲気を面白そうに教えてくれた。金曜会の活動に共鳴し当時、役場の企画課で三セクづくりの中心にいた。
施設開設の流れをたどってみた。
九二年四月 ジャージー牛肉の焼き肉で売るレストラン「ウッド・パオ」
九四年十月 農産物と特産品の直売所、ふれあい特産館「風の家」(九八年四月、道の駅に)
九七年十二月 ひるぜんビアバレースキー場
九八年四月、蒜山ハーブガーデン「ハービル」▽味覚工房「そばの館」
これで五つ。総投資額十四億円。年間約六億円を売り上げ、正社員二十人を含む六十人の雇用も生んだ。村に施設使用料千百万円を払い、赤字を出してないのが自慢だ。「黒字が増えたら使用料を増額しては」と議会で質問が出る。今や村では大企業といっていい。
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ハービルの事務所を訪ねた。「ここは年間七万人は入るよのう」。清水さんに問われた施設長(取材当時)の池田憲昭さん(37)が「開業効果で最初の年はよかったんですが…」と申し訳なさそうに答えた。
初年度の七万七千五百人が昨年度は五万九千人まで減ったという。「とっとり花回廊(溝口町)もできたし」。そう清水さんが応じた。
ハーブ園からつなぎの作業着で帰ってきた三セクの総支配人、藤田卓司さん(52)も話に加わる。「全部はもうからん。五つの施設が補い合って黒字になっているようなもんでね」。これにも清水さんはうなずいた。
「三セクを離れたので、だんだん詳しいことが分からなくなるなあ」。清水さんがふと漏らした。
清水さんからは「以前のですが」と名刺を二枚もらっていた。「岡山県川上村議会議長」と「解グリーンピア蒜山 副社長」とあった。
その肩書が外れるきっかけは九九年四月の統一地方選だった。現職の正富毅氏(67)に対抗して村長選に打って出て、大差で敗れたのである。隣の八束村との合併の是非が争点だった。
両村は九六年九月、県内でもいち早く法定合併協議会を設置し、周囲から注目されていた。ところが九八年春の住民アンケートで六割が消極的だったことから、村長が時期尚早論に転換する。推進論者だった清水さんは不利を承知でスジを通したのである。
「一緒になって蒜山の名を掲げれば、観光地としての強みは増し、財政基盤も強まる。次は合併しかありません」
三セクの役職を離れて今は、本業の別荘管理の仕事が主になったが、合併論議となると熱が入る。
最近、村長が慎重論を撤回し、両村合併に前向きの発言をし始めたことに、清水さんは意を強くしている。
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ところでリンゴ園はその後、立派に成長し、高速道開通後は、風の家で飛ぶように売れた。だが、もう一つの三セク、ひるぜんワイン有限会社の経営を軌道に乗せるため、原料の山ブドウの栽培に力が入り、今は放置されているという。
当時年間百二十万人だった蒜山の観光客は今は二百五十万人前後。倉敷に次ぐ県内二位の地位を固めてきた。
夢は実現しましたね。
「僕は火をつけてわいわい言っただけ。でも自負はしてますね。金曜会は強力な応援団でした」。その金曜会はもう役目を終えたようだ。集まるのは忘年会くらい。来年は二十五周年を祝いたいと、皆で話しているという。
◆当時の記事から(84年9月、要約 年齢は現在) 岡山県美甘村鉄山(かなやま)、真言宗・玉泉寺の住職、宮本定光さん(54)は東京からのUターンである。父の急死で一九七〇年、二十三歳で寺を継いだ。檀家(だんか)八十戸では生活もままならず、翌年、境内で始めたのが縫製工場。本業でも「美作国七福神霊場」の巡礼ツアーと「がん封じ、難病封じ祈願」で客を呼び込む。そんな経営実績のせいかどうか、村の商工会青年部長も回ってきた。だが「自分たちの寺によその人がくるのは困る」と檀家には不満もあった。
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▽名物法話にツアー客 進む過疎化 際立つ存在
玉泉寺の山門につながる急階段の参道には「癌(がん)封じ 難病封じ」ののぼりが何本もはためいていた。赤と紺。文字は白抜き。人もまばらな鉄山集落で、お寺は今も際立って目立つ存在だった。
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| 「癌封じ 難病封じ」ののぼりがにぎやかな玉泉寺の参道と宮本住職(岡山県美甘村鉄山) |
「うちにもあります」と宮本さんが言っていた玉泉寺のホームページを後で開き、階段にも意味を込めていることを知った。数え年にちなみ、下半分の三十三段は女の厄よけ坂、上の四十二段は男の厄よけ坂だそうだ。
寺のこんな「ご祈願案内」に併せ、七カ寺で続けている「美作国七福神霊場」の案内もある。PRはIT時代へ。だが、寺の運営の基本はほとんど変わっていないようにみえた。
参拝者は当時、年間一万人あった。「今は三万人くらいに増えてます」
順調だったんですね。
「ええ、お手の方が順調になったもんですから、縫製工場の方は見切りをつけまして」
いつのことですか。
「やめて十年以上はたってるでしょうか」
当時心配されていた従業員の高齢化ですか。
「いや、中国の方からね…」
安い中国製品の影響が、岡山市の衣料品会社の下請け、宮本縫製工場にも波及してきたのだ。発注は増え、取材当時八人だった従業員も二倍に増やした。だが人件費が上がる一方、工賃はどんど下がる。コスト倒れで借金が膨らんでいく。
「こんなのを、いつまでも続けていたら、とんでもないことになると思いまして」。今や世界の工場と化した中国。「早くやめてよかった」という言葉には実感がこもる。
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商工会青年部長の方はもう卒業した。取材当時三十七歳だった宮本さんは四十三歳まで部長を続けた。資格は四十歳以下だが、ほかに引き受け手がない。宮本さんが辞めて間もなく、青年部は活動休止に。二十人いた部員はこのとき、四、五人までに減っていた。
人口減が依然続き今、八百世帯、千八百人の美甘村。商店街は相次いで店を閉じ、後継ぎは勤めに出る。
「そのうち国道べりに『ここに美甘村があった』という石碑が建つぞ、今のうちに何とかしなくちゃあ、と皆で話してはいたが、何もできなかったですね」
お寺に話を戻そう。宮本さんは、放送や本などで面白い人生訓が目に付けば、法話に早速取り入れる。「お年寄りはすぐ忘れるから」と印刷して帰りに渡す。そんな身近なところから説き起こす法話は好評で、リピーター客を着実につかみ、広島、兵庫や四国全域から参拝客を呼び込む。
「花には人が寄ってくる」と今は、妻の静代さん(54)ともども「花づくりにえらい燃えている」という。もう二、三年したら、標高五五〇メートルの高冷地の気候を生かした「一カ月遅く四季の花が楽しめるお寺」として本格的に売り込むつもりだ。
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檀家数は当時とほぼ同じ。参拝客があのころより増えて、檀家との関係はどうなったのだろうか。
「あんまり変わってないみたいですよ。この田舎にバスが来ますと派手ですからね。野良仕事をしているところに来るわけですから、『玉泉寺の住職またもうけたな』でしょうね」
そう屈託なく笑う宮本さん。次は三年後の着工をめどに本堂の新築を計画している。本堂に「寄付一口三万円」とあった。「あれはお参りに来た方ので、檀家はもっと払うんですよ」
集まりますか。
「こんな時期にと、そりゃ文句は言われます」。苦笑いしながらも、宮本住職は一向に気にする様子はない。
◆当時の記事から(84年9月、要約 年齢は現在) 鳥取県の大山の中腹、桝水高原で戦前の一九三三年から営業する旅館の経営者、松岡嘉之さん(58)は大のチョウ好き。ふもとの米子市出身で、少年時代から大学生になっても捕虫網を手に大山にチョウを追った。その縁で松岡家の養子に。今度はカメラでチョウの撮影に熱を入れ始めた。「大山の自然を守る会」の会員でもあり、野草ブームによる盗掘がチョウの生態系に与える影響に頭を悩ます一方、旅館経営者としては観光開発へ期待もかけていた。
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▽頭痛める保養所閉鎖 肌で感じた企業の衰退
「食堂をやってますから」ということで、暇になるころ合いを見計らって松岡さんを訪ねた。電話帳には「松岡旅館」とあったが、看板を見ると「まつおか」。食堂も始めたと思っていたら、食堂と土産物店がもう本業になっていた。
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| 食堂・土産物店に改装された旧松岡旅館と松岡さん。後方には米子市街や島根半島が望める(鳥取県溝口町の桝水高原) |
転業はバブル末期の九〇年。「近ごろはどこの家もきれいになって、よっぽどの施設にせんと、お客さんが満足せんようになりました」
豪華ホテルが相次ぐ時代。結局、旅館に見切りをつけた。冬は貸しスキーと貸しボード。法人名でもあり電話帳の名義はそのまま残しているという。
そしてバブル崩壊。「あのころがピークでしたね。今はホテルも保養所も閉鎖、閉鎖で送別会ばっかりやってますわ」と松岡さんがぼやいた。
「国立公園大山 桝水高原自治会 会長」。名刺の肩書を見て納得した。自治会にとって頭の痛い相次ぐ施設の閉鎖。松岡さんの話はここから始まった。
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大山の中腹、標高七、八百メートルにかけて広がる桝水高原は早くから開けた観光スポットである。大手企業の保養所が多く、前の取材当時、ホテルと保養所は二十九軒を数えていた。その後、三十三軒まで増えた。みな自治会メンバーだった。
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| 桝水スキー場のリフトは当時はまだ設置されていなかった |
聞いてみると大企業ばかり。最近では、合併で二つの保養所を抱える企業も出てきた。閉鎖は五年前に始まり、ホテルが計三軒、保養所が十三軒。メンバーはもう十七軒に減ってしまった。
すさまじいばかりのリストラと再編。日本企業の苦悩を、松岡さんは大山から垣間見ることになった。
地元の三軒は健在だが、隣は「土産が売れなくなった」と焼き肉店に衣替えした。もう一軒はいったんやめ、今年から二年ぶりに再開した。「まつおか」の客もピークからは半減している。
だが松岡さんはそう悲観していない。「うちはそれこそ知った人ばかりでね。おいしいものを適当な値段で売っていればどうってことはない」と自信を持っている。
メニューのメーンは大山おこわと大山そば。そばは、夫婦で店を手伝う長男昌之さん(29)の手打ちで評判がいい。
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以前の取材の話をしていたら、妻のとしこさん(52)が「そういえば」と笑い出した。「あのころ主人は、チョウを追いかけたら夢中になって、この子をよう山にほったらかしてましたよ」
チョウを通して大山の自然を見つめていた松岡さん。今をどうみているのだろうか。「木が大きくなって、うっそうとしてきたので、目にする機会は減ったが、いるのはいると思います。だが、ゴマシジミは終わりに近づいたようですな」
茶花として人気があり、当時から盗掘が目立ってきたワレモコウ。そこに卵を産み付けるゴマシジミの命の行方を松岡さんは心配していた。
盗掘や盗伐は今も思い出したように繰り返される。一昨年は、秋に赤い実をつけるナナカマドが切り取られる事件が相次いだ。「茶花で高く売れますからね」と松岡さんは残念がる。
環境庁の自然公園指導員であり、大山の美化を推進する会と、大山の頂上を保護する会の各副会長として、自然保護活動にさまざまな形で携わってきた。「持ちかえり運動のせいでごみはだいぶ減ったね」。だが活動には終わりがないと思っている。
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