◆当時の記事から(要約、84年1月)
芸北町は七四年、広島県でいち早く水田ほ場整備に着手するとともに、集落単位の生産組合を組織し稲作作業を省力化した。兼業農家の負担を軽減、専業農家は浮いた労力でトマトやホウレンソウ栽培を導入し、高冷地野菜の有力産地に成長。集落営農のモデルとして視察も相次いだ。機械のオペレーターは五十歳前後の専業農家が中心で皆、元気な時代。だが跡取りもなく年をとったら、という漠然とした不安ものぞき始めていた。 |
高齢化 描けぬ将来
▽新規就農に恵まれず
芸北町の雄鹿原地区に沖一志さん(68)を訪ねた。「昔なら隠居でしょうが、そうもいきませんて。オペレーターはさすがにもう補助員ですがね」と笑い出した。
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| ほ場整備した水田とトマトの雨よけ栽培のハウスは芸北町の典型的な景観だ。農家は冬場、スキー民宿も営む(雄鹿原) |
秋の取り入れの時、中核のオペレーターの食事休憩中や、都合の悪くなったときをカバーする役回りだという。
七四年、芸北町の生産組合の第一号として雄鹿原生産組合(組合員八十八戸)が誕生して以来、バリバリのオペレーターとして中核を担ってきたのが、コメ作りにかけてきた沖さんたち専業農家だった。
沖さんと近所の田中正之さん(66)、香川洋治さん(69)を役場の高橋平信助役(64)は「生産組合を何かと引っ張ってきた三人。今でも現役で頑張っとります。いや頑張らざるを得ない」と言う。
オペレーターの中核は今、役場や建設会社に勤める兼業農家を中心に八人くらいに。「それでも四十歳から六十歳くらい。ようは新規の就農者がほとんど出なかった。これからどうなるのか」と田中さんは気をもむ。
沖さんと田中さんは水稲とトマト、香川さんは水稲とホウレンソウの複合経営。冬は民宿という芸北型農業のモデルを作り上げた。香川さんは今シーズンから民宿はやめた。せっかく確立した専業経営だけに「続けたい」という気は皆強い。だが後継ぎの話となると口が重くなるようだ。
香川さんは千代田町で勤める息子に本気でやるよう働きかけたが「あれにはあれの道があるようで…」と、もう一度自分が頑張ってみるか、となった。沖さんは息子が県庁勤めで定年まで二十年くらいある。「それまで続けられるかどうか悩ましいところでして」
田中さんは「最後の頼みだった」三人娘の最後が結婚した。指導農業士として最近、頼まれるままに研修生を三人受け入れた。一人は島根県でトマト栽培を始める。一人は近所でトマトの栽培を始めて二年になる。今一人が広島市から通いで研修に来ている。「新規の就農希望者は多い。できるだけ世話したい」とこちらに期待をかける。
ほ場整備と生産組合づくりを強引ともいえる手法で進めた当時の「開発課長」が高橋さん。当時の整備率は74%で七つの生産組合が生まれていた。ほ場整備は八九年に終わり、生産組合は九つに増えた。組合員は計五百四戸、水田面積四百三十六ヘクタールで農家数の五割、水田の六割をカバーしている。高齢化という事情はほぼ同じだ。
農家の機械化貧乏を追放し、省力化もできるといっても、作業をするオペレーターは組合員のだれかが担わないといけない。国が進めている生産組織の法人化は芸北に適用できるのかどうか―。高橋さんたちは今、真剣に考える時期に来たと感じている。
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◆当時の記事から(要約、84年1月)
槙本さんは、借地が困難だった一九七〇年から隣の千代田まで次々、借り入れて自作地一・五ヘクタールを含めて十三ヘクタールの経営を実現した。そんな時に地元、六十戸の田原集落で、ほ場整備に合わせ生産組合が発足。ライスセンターと農業機械の共同利用が計画に上る。兼業農家は省力化で助かるが、自分でやる専業農家が利用料を出して委託したら収入が減る。だが生産組合の役員で町議としては無視もできない。さあ槙本さんは困った。 |
個人経営 貫き通す
▽組合とは歩調合わず
記事には「自作地だけは生産組合に任せるハラを決めた」とある。結局、どうしました、と尋ねたら苦笑いしながら言葉が返ってきた。
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| 自宅から98年にオープンした町の交流館「天狗(てんぐ)の里」を望む橋本さん。農産物直売所もある。水田のほ場整備に続き「周りの環境が一変しました」(田原) |
「やっぱし出さなんだ。コメ作りで乾燥・調整は一番おいしいところ。機械も傷まんから長く使える。ライスセンターに持っていったら、そこを全部取られます」
槙本さんはまだ組合員で町議七期目。議長も務めた。今は田原自治会の会長。折り合いは悪くならなかったのだろうか。
生産組合がライスセンターの補助をもらうためには、組合員の水田面積四十ヘクタールが条件だった。槙本さんら三戸の大型稲作農家も事情を承知で組合員となったが、みすみす収入の減る利用まではやはりできなかった。他の組合員も、そこまで無理は言えなかったようだ。
実は兼業農家も利用はまちまちだ。組合の事務局長で町福祉保健課長の中屋原薫さん(54)によると、組合員は五十四人だが、利用は二十人前後。その後発足した田植え機とコンバインの利用組合も二十人程度という。
「最初にみなで一、二、三でやることができなかった。できるところから始めたら田植えだけとか、刈り入れだけとか、人によって何を利用するかもばらばらになった」と中屋原さんは説明する。
利用率の低さにはもっと深刻な背景がある。「利用できる人はまだええほう。年とってきたら一部の作業を委託しても後の作業ができん。結局、全部頼むしかない。生産組合では面倒見きれないから、借地に出すしかない。利用はこれからも減るだろう」と槙本さんはみている。
そのせいで農地は「借り手市場」になってきた。「土地はいつでも返す」と信頼を築きながら、借地を増やしていった時代がうそのようだ、と槙本さんは振り返る。
借りられるのは条件の悪い田ばかりだった。機械が十分使えないから、子ども三人も入れて家族五人総出。田植えは六、七十代の女性を雇って人海戦術だった。
経営面積は一時、十四ヘクタールまで増やした。その後、体力に合わせて徐々に減らし現在、九・四ヘクタール。借り手は二十五戸。最も遠い借り手までの距離は二十五キロから二十キロに縮まった。今は選別して受け、条件の悪い田がなくなったのが大きな変化だ。田植え機も入れた。作業は夫婦と千代田町で勤める長男慎太郎さん(32)の休日働きでこなす。
九五年のコメ自由化以降、コメ相場は平均三割程度下落した。槙本さんは「自分の才覚で高く売るしかない」と直接、販路の開拓に歩く。商売感覚も問われる時代に入ったのだ。
実は槙本さんは四年前、長男に経営委譲している。だが、まだ働きの中心だ。仮に継いでも今の方法では困難とみる。「法人にせんと補助金が出ん仕組みになってきた」。生産組合との調整で苦労してたのと同じ矛盾を今、再び感じている。
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