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中国山地
明日へのシナリオ
「点検・あれから18年」 石見地域編
2002.9.24
 十八年前の連載「新中国山地」のその後をたどる特集は今回、島根県の石見地域を取り上げる。借地で規模拡大を進めていた桜江町の養蚕農家。瑞穂町の野菜産地としての発展に貢献してきた先進農家。重労働に耐えながら着実に基盤を固めていた匹見町のワサビ農家。その後の歩みはさまざまだが、いずれも本業には見切りをつけ、新たな道を進んでいた。
(中国山地取材班)

花苗づくり 悠々自適

 ◆当時の記事から(84年12月、要約、年齢は現在)

 島根県瑞穂町はここ四、五年、広島市場向けの野菜産地として成長してきた。ハウスも取り入れて周年栽培が定着。一九五七年に個人で初めて出荷した原村地区の日高諄(まこと「)さん(70)は産地の先達。二年遅れで「日高さんをまねた」のが隣の和田地区の野村旭さん(68)だ。今は出荷は農協任せだが、プール計算の兼業農家と違い、二人は個別に競ってもらう。相場の先を読んで品目と作付面積も決める個人の才覚が支えの商売。だが、量販店の大量仕入れが広がる中で、いつまでその方法が続けられるか。気にはなっている。


広島市の台所 妙味消えた野菜相場

野菜のポット苗を見回る野村さん夫妻。前回の取材当時、ハウスはキュウリでいっぱいだった(島根県瑞穂町和田)

 日高さん夫婦はハウスの中で、台にぎっしりと並んだポット苗に水をやっていた。「ひと休みしますわ」と二、三百メートルほど離れた自宅に車で一緒に戻った。

 聞くと、苗として出荷する花と野菜だという。「花に代わって十六年ぐらいになりましょうか。もうそれもやめて、今は苗だけを細々。なんせ七十ですけえのう」

 愉快そうに笑う二人に、ゆとりを感じた。毎日毎日、収穫に追われた当時とは随分様変わりしたようだ。

 野菜の相場が悪くなったのですか、と聞いた。答えは意外だった。

 「いや、そうじゃあなかった。広島の福屋でシクラメン見てほれ込んだゆうか、どうでも作ってみたい思うて」

 取材から二年後の八六年のことという。ほぼ三十年も続けてきた野菜作りを、あっさり捨てたのだから思い切ったものである。

 当時の経営規模は一・六ヘクタールだった。五アールの野菜ハウス二棟を、シクラメンやハボタンに切り替え、ハウスはその後、五棟に増やした。露地の畑は水田に戻した。もう後には引けなくなった。

 □ ■ □ 

 日高さんの選択は周りの野菜農家にも影響を与えた。野村さんがその四年後の九〇年、キュウリの連作障害に悩んでいたこともあって、「また日高さんをまねて」花作りを始めた。

 最初は十アールのハウス三棟のうち、一棟は引き続きキュウリを作った。翌年、すべて花に転換したら、九月の19号台風で一棟が倒壊してしまった。それ以来、二棟。露地の六十アールは水田に戻している。

 当時、和田と原村の野菜専業農家九戸が和田原施設組合をつくっていた。このうち結局、四戸が花へ代わった。

 残りの野菜農家はその後、死亡や高齢で二戸が抜けた。親子二代の野菜農家一戸を除けば。花も野菜もみな規模を縮小してきた。

 花は今も個人出荷である。一時間半かかる広島の花市場へ、めいめいがトラックを運転して出かける。「花は若い衆が多いですけえ、年ひろうたんが行くと格好がよおない」と野村さんが笑せる。

 瑞穂町全体が年を取った。「今も広島市の台所という自負はあるが、市場側はどうみてるでしょうか」と町産業課の担当者。八五年当時、二億四千万円あった野菜販売額は九三年の三億八千万円をピークに減少に転じ、二〇〇〇年は二億二千万円。数字は正直である。

 □ ■ □ 

 日高さんに話を戻そう。「シクラメンは手間がかかる」と四年前、五棟のうち三棟を農協に貸し、花をやめて苗に切り替えた。「ここ二、三年はほんまなまけとる」と、また夫婦で笑いはじめた。

 今では、週二回の出荷は二人のレジャーも兼ねる。二トントラックに苗を積んで昼前に出て、温泉に入り、おいしいものを食べ、たまには広島の孫と遊び…。

 日高さんは当時、「広島に出るのはパチンコしたり、遊びに行くようなもん」と、野菜が週一、二回の個人出荷だった時代を懐かしがっていた。その話をすると「あのころとおんなじですな」。

 がむしゃらに働いた後、取り戻したゆとり。銀行員の長男は後を継ぐ気はないが、一男一女の二家族七人が毎年、代かきと田植えには帰る。前日にはカラオケ、当日は弁当を作ってピクニック気分。それも夫婦の楽しみだ。

 相場を読む才覚で生きてきた日高さん。花への転換もバブル景気に向かう運のいい時期にあたっていた。それが「今はあのころの半値」と魅力も薄れたという。

 撤退したとはいえ気にかかってきたのは、その後の野菜市場の低迷だ。量販店のシェアが高まり、予約相対取引が幅を利かす時代。「競り値もあまり動かん。面白みがなくなったですわ」。当時の心配は当たっていたのである。


 ◆当時の記事から(84年11月、要約、年齢は現在)

 祖母一人になった家を継ぐために大阪の製氷会社を辞め、妻と一人娘を連れてUターンして七年。植田久夫さん(55)は匹見町でも数少ないワサビ専業農家だ。実家は町の中心地から八キロの谷筋の集落、戸村地区。娘の学校のため役場近くの空家を買い、戸村にワサビ作りに通う。谷ワサビ十アール、畑ワサビ六十アールと面積は帰郷当時の二倍に。コメとはくらべもにならない高収益だが、それだけ労働もきつい。水害の少ない畑ワサビを中心に着実に規模を広げる―。それが植田さんの計画である。


ワサビに生きる 拡大限界 木工に道

自宅そばに設けた木工場で、湯飲みの仕上げをする植田さん。ワサビをやめてもう10年になる(島根県匹見町紙祖))
 ■安価な中国産に押される

 当時の記事に、谷のワサビ田に登るのに植田さんは三十キロの苗を背負い、休みなしで一時間近く歩いた、とある。「多いときは四、五十キロも負うていったもんです」。その苦労も今は昔話になった。

 ワサビは一九九一年か九二年にやめたという。中国産も入り、相場は下がる一方。「量出しゃあ、なんとかなる」と規模拡大にかけたが、体力も限界にきていた。

 谷ワサビを二倍の二十アール、畑ワサビも十アール増やし七十アールまでいったところで、見切りをつけた。

 「何をするかあ、決めちゃあおらなんだ」が、その後、農協に勤め、新聞配達をし、たどり着いたのが木工の世界だったという。

 母屋を建てたため、空き家になっていた道路沿いの家を九四年夏、町内の木工グループ、ひきみ森の器工芸組合に貸したのがきっかけだった。毎日前を通るので興味を持ち、「やらせてみてくれんか」と頼み込んだ。

 かんなを持って、ろくろを回し、その魅力に引き込まれていった。町の後継者育成事業に乗って二年間、組合で研修を受け、九七年に自立した。

 言わば五十の手習いである。組合長の大谷照行さんは(42)は「なかなか器用ですよ」と評価する。組合の仕事を受け負い、今では湯飲みから皿、わん、盆、ボウルと何でもこなす。

 森の器の製品は、匹見峡温泉やすらぎの湯や、ウッドパークなど町内の観光施設をはじめ、各地で販売している。

 ワサビ田に分け入る基地となっていた、戸村の実家はどうなったのだろうか。

 半分つぶれ、解体したという。当時、八戸あった集落も今は四戸。「ワサビは、ありゃあするが、みな家の周りでちょっと作るぐらい」と植田さん。町内の七村に買った畑ワサビの土地にも、もう入ることはない。

 ワサビ産地、匹見もだいぶ細ってきた。当時、二百三十戸あったワサビ農家は今は百五十戸。高齢者が次々とやめ、規模も小さくなった。販売額は下がり続け、この十年余りでも、八八年の一億一千万円が九九年には五千万円に落ち込んでいる。

 「労働負担が大きいし、水害も続いた。後継者もなかなか育ちません」と役場の担当者も残念がる。

 ワサビ相場は、七七年に植田さんがUターンして二、三年するともう下がり始めていたという。それでも当時、「ワサビがあるから生きていけるんです」と笑っていた植田さん。若さで走った十五年のワサビ人生だったのかもしれない。



値崩れ続き 野菜に転換
 ◆当時の記事から(84年11月、要約、年齢は現在)

 島根県では出雲市に次ぐ養蚕地帯、桜江町。その桑作りを支えるのは江川の河川敷である。町内有数の養蚕農家、大貫地区の岩崎久広さんは(67)は一九七二年の豪雨災害以来、「荒らすよりは借りて」と頼まれて規模を年々拡大してきた。今年の集繭量は過去最高の千六百八十五キロを達成し、目標の「二トン養蚕」まで後一歩に近づいた。だが中国産の輸入攻勢もあって相場は下落傾向が続く。山仕事を減らして養蚕に本腰を入れるかどうか。「問題は相場ですな」と岩崎さんは考え込んだ。


暴れ川と養蚕 農地拡大「町内一」に

江川河川敷の畑を背景に岩崎久広さんと妻幸子さん、母のシゲミ三。前回は繭の選別の作業を撮らせてもらった。左の竹やぶと山の間が江川。堤防のかさ上げ工事が上流まで進んできた(島根県桜江町大貫)
 ■高齢者、次々と世話頼む

 岩崎さんは養蚕に見切りをつけ、町内一の規模の米作・野菜農家に転身していた。そのいきさつが桑園の時とまったく同じだから面白い。

 「荒らしとうないから、なんとか作ってほしい」と高齢化した農家から頼まれるままに十アール、二十アールと借りていったのである。それがもう四十戸。気がついたら水田が三・六ヘクタール、畑が三ヘクタールと自作地の十倍。当時の桑園面積一・五ヘクタールをはるかに超えてしまった。

 「これからはもう断らにゃあ、体がもたんよ」と気遣う妻の幸子さん(59)に、岩崎さんは「この年で、そりゃあ楽にゃあないが、よう作らんと言われて放っておいて、荒廃したじゃあ情けない」と応じた。

 大貫地区は当時、六十五戸。養蚕農家は十一戸にまで減っていた。今は六十戸くらいという。養蚕農家はもうゼロ。桜江町からも養蚕農家はすべて消えてしまっていた。  

 いつやめたのですか。「はて…」と考えだした岩崎さんに、母シゲミさん(88)も加わって記憶をたどり始めた。

 結論は取材から三年後の八七年だった。理由は「相場でさあね」。当時、一キロ二千円したのが千五百円まで落ち込んだ。そこで役場が「養蚕はもう将来性がない」と、桑と同じ河川敷の土壌に向くゴボウへの転換を奨励してきたのに、岩崎さんも乗ったのだ。

 □ ■ □ 

 収繭量は取材当時がピークだった。邑智郡一、島根県では六位の記録である。「二トン養蚕」は夢に終わったが、おかげで表彰も受けた誇りが次のステップへつながる。

 「努力すりゃあ成果はある」と信じて、ゴボウから白ネギ、長芋、スイートコーン、広島菜と品目を次々増やし、年中、作業に追われるようになった。

 ほぼ常雇いの男性一人を含めて、五人のお年寄りに手間を頼んでいる。作業がきつくなったため三年前、山仕事からも手をひいてしまった。

 自宅前の国道261号に沿って連なる江川の河川敷が、岩崎さんの田畑である。国道から川までの幅は約百三十メートル。三十メートル分が水田、残りが畑。平行してはるか下流までの延びる。畑はかつて一面、広大な桑園だった。

 竹やぶにさえぎられ、川面は望めない。その流れは度々のはんらんで農地をのみ込んでいった。「さいの河原、言うんでしょうね」。当時、シゲミさんはそう嘆きながらも河川敷の強みも教えてくれた。

 被害は困るが、大洪水も、二、三年に一回の増水も、山の腐植土をもたらし、土壌を肥よくにするという。母なる江川ともいえるわけだ。

 そんな肥よく土が十メートルもたい積しているのが河川敷。大貫地区を含む旧川越村の名を冠した「川越ゴボウ」は、かつてその土壌で育ち、評価を受けていた。

 □ ■ □ 

 ただ、ゴボウは水に弱い。三月、四、五月と順次、種をまき、年末にかけ収穫すると、どうしても水害に遭いやすい。

 岩崎さんは、七月の雨期を前に収穫するトンネル栽培を取り入れる。十一月に種をまき、保温のため、うねに沿ってビニールをトンネル状に覆う方法である。

 年末の需要期に最もおいしく生育するが、管理が難しい六、七月まきも取り入れた。一つ一つの工夫で評判を得て、市場出荷ともに直接配送する得意客も定着している。

 「品質には土づくりが一番でさあね。それも河川敷の自然の恵みがあってこそ」と岩崎さんはあらためて思う。

 □ ■ □ 

 今は、島根おおち農協に務める長男勝幸さん(33)夫婦と孫三人の八人暮らし。今年の正月にはシゲミさんの米寿と幸子さんの還暦を町内の風の国温泉で祝った。二男二女夫婦と孫が結集し、総勢二十二人になった。

 「盆暮れにも何かと寄る。わいわいがやがやがええんでさあね」。岩崎さんは、いかにもうれしそうだ。

 ただ、周りを見渡すと、一人暮らしのお年寄りがいやでも目につく。

 あの人もいずれ「作ってくれ」だろうか。頼まれたら、やはり断れないのではないか。体力はそろそろ限界という気もするが…。  岩崎さんは考え込まざるを得ないのである。

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伸び放題だった桑の木を切り払って植樹された若い桑の木。そのまま残した高木から実を採る(桜江町大貫)

 ▽桑茶づくりで廃れた畑復活 Iターン者が起業

 養蚕農家がゼロになった桜江町。かつて江川の河川敷を彩っていた桑園は、野菜畑へ転換した所を除くとこの十数年、荒れるに任されてきた。葉を摘みやすいように低く抑えていた桑の背丈は今、無秩序に五、六メートルにも成長し、ジャングルの様相を呈している。

 その桑園が今、復活しつつある。先導役は福岡市で旅行業をしていた古野俊彦さん(57)だ。田舎暮らしの希望を桜江町のIターン募集に応じて実現。一九九六年に夫婦で移住してきた。

 「さて何をやるか」と、たどり着いたのが健康食品としての桑の葉の活用だった。役場も支援し、商品化第一号の桑茶を「マルベリー(桑)ハーブのお茶」としゃれたブランドで九八年に発売。桑の実も原料に次々製品を開発していった。

 昨年の販売額は四千八百万円。一億円企業が射程に入ってきた。有機無農薬のJASの認定も取得する予定だ。

 桑園農家など五十人が農業生産法人・有限会社桜江町桑茶生産組合つくり、古野さんは代表取締役である。おかげで今年一月、市山地区の旧縫製工場の三階建てビルを取得できた。

 「特産というのは本当にその土地に合ってるからこそ、特産なんですよ」。古野さんは、かつて町内でコメと並ぶ収益を上げていた桑に、ことのほか思い入れるようになったという。

 最盛期の四分の一とはいえ、放置されていた桑園は二十七ヘクタール。その半分くらいを復活するのが目標だ。借り受けて既に七ヘクタールで栽培。委託生産も五ヘクタールある。古い桑の木の利用だけでは、いずれ資源が枯渇するため、挿し木による植樹も始めた。

 お年よりの作業の場を生み出し、Uターン・Iターンの社員も八人。養蚕は廃れたが、町の産業起こしに再び、桑の貢献が始まっている。


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