◆当時の記事から(84年11月、要約、年齢は現在)
島根県では出雲市に次ぐ養蚕地帯、桜江町。その桑作りを支えるのは江川の河川敷である。町内有数の養蚕農家、大貫地区の岩崎久広さんは(67)は一九七二年の豪雨災害以来、「荒らすよりは借りて」と頼まれて規模を年々拡大してきた。今年の集繭量は過去最高の千六百八十五キロを達成し、目標の「二トン養蚕」まで後一歩に近づいた。だが中国産の輸入攻勢もあって相場は下落傾向が続く。山仕事を減らして養蚕に本腰を入れるかどうか。「問題は相場ですな」と岩崎さんは考え込んだ。
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| 江川河川敷の畑を背景に岩崎久広さんと妻幸子さん、母のシゲミ三。前回は繭の選別の作業を撮らせてもらった。左の竹やぶと山の間が江川。堤防のかさ上げ工事が上流まで進んできた(島根県桜江町大貫) |
■高齢者、次々と世話頼む
岩崎さんは養蚕に見切りをつけ、町内一の規模の米作・野菜農家に転身していた。そのいきさつが桑園の時とまったく同じだから面白い。
「荒らしとうないから、なんとか作ってほしい」と高齢化した農家から頼まれるままに十アール、二十アールと借りていったのである。それがもう四十戸。気がついたら水田が三・六ヘクタール、畑が三ヘクタールと自作地の十倍。当時の桑園面積一・五ヘクタールをはるかに超えてしまった。
「これからはもう断らにゃあ、体がもたんよ」と気遣う妻の幸子さん(59)に、岩崎さんは「この年で、そりゃあ楽にゃあないが、よう作らんと言われて放っておいて、荒廃したじゃあ情けない」と応じた。
大貫地区は当時、六十五戸。養蚕農家は十一戸にまで減っていた。今は六十戸くらいという。養蚕農家はもうゼロ。桜江町からも養蚕農家はすべて消えてしまっていた。
いつやめたのですか。「はて…」と考えだした岩崎さんに、母シゲミさん(88)も加わって記憶をたどり始めた。
結論は取材から三年後の八七年だった。理由は「相場でさあね」。当時、一キロ二千円したのが千五百円まで落ち込んだ。そこで役場が「養蚕はもう将来性がない」と、桑と同じ河川敷の土壌に向くゴボウへの転換を奨励してきたのに、岩崎さんも乗ったのだ。
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収繭量は取材当時がピークだった。邑智郡一、島根県では六位の記録である。「二トン養蚕」は夢に終わったが、おかげで表彰も受けた誇りが次のステップへつながる。
「努力すりゃあ成果はある」と信じて、ゴボウから白ネギ、長芋、スイートコーン、広島菜と品目を次々増やし、年中、作業に追われるようになった。
ほぼ常雇いの男性一人を含めて、五人のお年寄りに手間を頼んでいる。作業がきつくなったため三年前、山仕事からも手をひいてしまった。
自宅前の国道261号に沿って連なる江川の河川敷が、岩崎さんの田畑である。国道から川までの幅は約百三十メートル。三十メートル分が水田、残りが畑。平行してはるか下流までの延びる。畑はかつて一面、広大な桑園だった。
竹やぶにさえぎられ、川面は望めない。その流れは度々のはんらんで農地をのみ込んでいった。「さいの河原、言うんでしょうね」。当時、シゲミさんはそう嘆きながらも河川敷の強みも教えてくれた。
被害は困るが、大洪水も、二、三年に一回の増水も、山の腐植土をもたらし、土壌を肥よくにするという。母なる江川ともいえるわけだ。
そんな肥よく土が十メートルもたい積しているのが河川敷。大貫地区を含む旧川越村の名を冠した「川越ゴボウ」は、かつてその土壌で育ち、評価を受けていた。
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ただ、ゴボウは水に弱い。三月、四、五月と順次、種をまき、年末にかけ収穫すると、どうしても水害に遭いやすい。
岩崎さんは、七月の雨期を前に収穫するトンネル栽培を取り入れる。十一月に種をまき、保温のため、うねに沿ってビニールをトンネル状に覆う方法である。
年末の需要期に最もおいしく生育するが、管理が難しい六、七月まきも取り入れた。一つ一つの工夫で評判を得て、市場出荷ともに直接配送する得意客も定着している。
「品質には土づくりが一番でさあね。それも河川敷の自然の恵みがあってこそ」と岩崎さんはあらためて思う。
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今は、島根おおち農協に務める長男勝幸さん(33)夫婦と孫三人の八人暮らし。今年の正月にはシゲミさんの米寿と幸子さんの還暦を町内の風の国温泉で祝った。二男二女夫婦と孫が結集し、総勢二十二人になった。
「盆暮れにも何かと寄る。わいわいがやがやがええんでさあね」。岩崎さんは、いかにもうれしそうだ。
ただ、周りを見渡すと、一人暮らしのお年寄りがいやでも目につく。
あの人もいずれ「作ってくれ」だろうか。頼まれたら、やはり断れないのではないか。体力はそろそろ限界という気もするが…。
岩崎さんは考え込まざるを得ないのである。
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| 伸び放題だった桑の木を切り払って植樹された若い桑の木。そのまま残した高木から実を採る(桜江町大貫) |
▽桑茶づくりで廃れた畑復活 Iターン者が起業
養蚕農家がゼロになった桜江町。かつて江川の河川敷を彩っていた桑園は、野菜畑へ転換した所を除くとこの十数年、荒れるに任されてきた。葉を摘みやすいように低く抑えていた桑の背丈は今、無秩序に五、六メートルにも成長し、ジャングルの様相を呈している。
その桑園が今、復活しつつある。先導役は福岡市で旅行業をしていた古野俊彦さん(57)だ。田舎暮らしの希望を桜江町のIターン募集に応じて実現。一九九六年に夫婦で移住してきた。
「さて何をやるか」と、たどり着いたのが健康食品としての桑の葉の活用だった。役場も支援し、商品化第一号の桑茶を「マルベリー(桑)ハーブのお茶」としゃれたブランドで九八年に発売。桑の実も原料に次々製品を開発していった。
昨年の販売額は四千八百万円。一億円企業が射程に入ってきた。有機無農薬のJASの認定も取得する予定だ。
桑園農家など五十人が農業生産法人・有限会社桜江町桑茶生産組合つくり、古野さんは代表取締役である。おかげで今年一月、市山地区の旧縫製工場の三階建てビルを取得できた。
「特産というのは本当にその土地に合ってるからこそ、特産なんですよ」。古野さんは、かつて町内でコメと並ぶ収益を上げていた桑に、ことのほか思い入れるようになったという。
最盛期の四分の一とはいえ、放置されていた桑園は二十七ヘクタール。その半分くらいを復活するのが目標だ。借り受けて既に七ヘクタールで栽培。委託生産も五ヘクタールある。古い桑の木の利用だけでは、いずれ資源が枯渇するため、挿し木による植樹も始めた。
お年よりの作業の場を生み出し、Uターン・Iターンの社員も八人。養蚕は廃れたが、町の産業起こしに再び、桑の貢献が始まっている。
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