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2002.9.17
十八年前の連載「新中国山地」のその後をたどる特集は今回、氷ノ山・人形峠地域を取り上げる。建設省(当時)の苫田ダム計画に阻止条例を掲げて反対運動を続けていた岡山県の奥津町。既に反対運動は終止符を打ち、ダムは二〇○五年春の完成を目指して工事が着々と進む。「ウランの村」として国の原子力政策とともに歩み、活気に満ちていた岡山県の上斎原村は、動力炉・核燃料開発事業団(当時)の改革が始まった一九九八年以来、新たな雇用不安を抱える。いずれも国策に揺れる小さな地域の象徴的な姿かもしれない。
(中国山地取材班) |
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国策転換 施設解体へ
◆当時の記事から(84年10月、要約)
一九五五年に人形峠でウラン鉱床が発見されてから二十九年。上斎原村は、ウラン燃料の自主技術開発を進める国内唯一の拠点・動燃人形峠事業所の事業拡大に伴って明るかった。七九年にウラン濃縮パイロットプラントの一部操業開始で村財政がうるおい、関連の地元雇用も拡大した。商業プラントにつながる原型プラントも十月末(記事掲載の月)に着工する。採算最重視で雇用条件への影響が心配―との声もあるが、一気に深まった動燃との関係はもう動き出した。
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| ウランの村 | 雇用縮小 財政にも影響 ゆっくり幕引き望む声 |
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| 動燃改革がきっかけで、古里で再び肩を並べることになった人形峠展示館館長の田淵さん(右)と、環境技術センターの警備員の片田さん(岡山県上斎原村の展示館前) |
《国際的にも機密性の高いウラン濃縮工場。その警備を担うのは皆、地元の人。片田光男さん(38)はキャリア六年。警備員の制服もすっかり板に付いたようだ》
当時、そう書いた片田さんは核燃料サイクル開発機構人形峠環境技術センターで、引き続き警備員として働いていた。五十五歳。六十歳の定年が近づいてきた。新規採用のない職場での日々。「来年はまた人が減るなあ」と、ふと寂しくなるという。
「先行きが見えない。われわれはいいが、かわいそうなのは高校生くらいの子どもを抱えた四十代の人でしょうな」。人員削減は計画通り進んでいるが、地元雇用は定年者の不補充だけで解雇はないのが救いという。
片田さんとは技術センターのPR施設・人形峠展示館で会った。話に加わった館長の田淵章敬さん(58)が「要はソフトランディングです」と補足してくれた。
人形峠の整理縮小計画は地域の雇用不安を起こさないよう、施設解体の速度を緩やかにし、人員削減速度も落とす方法で進められているのだ。
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従業員は今、三百四十人。サイクル機構の職員が百二、三十人。残りは役務契約を結んでいる片田さんたち地元雇用である。今のところ減ったのは、もともと転勤のあるサイクル機構の職員だけという。
田淵さんも職員だった。繰り上がった役職定年の五十七歳で関係会社に籍を移し、昨年四月から館長を務める。出身地は上斎原。学校の関係で妻と子どもを津山に住まわせ、実家で母と二人暮らしだ。「まさか帰ることになるとは思わなかった」と話し始めた。
もともとが「探鉱屋」という。大学の地質学科を卒業して七〇年に動燃に就職した。ウラン資源の探査に走りまわり、最後はオーストラリア勤務。土地の先住民アボリジニと話をつけて「さあ探査だ」と意気が上がったところで、動燃改革で国がウラン原料の自主開発を断念してしまった。
結局、九八年十月、新組織の人形峠環境技術センターの総務グループリーダーへ転勤する。整理縮小計画を具体化する責任者への転身である。そして、今の館長へ。
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| 人形峠環境技術センターの地元雇用の窓口企業、人形峠原子力産業の事務所のある建物(左手)からセンターを望む。今も村最大の雇用の場だ |
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片田さんは小中学校で田淵さんの二年後輩だった。家も近所。「よう面倒みてもらいました」と片田さんが笑う。動燃改革がなければ、二人がこういう形で肩を並べることはなかっただろう。
動燃時代から、地元雇用の窓口となってきたのが、七八年に設立された村長が社長を務める人形峠原子力産業である。当時、警備から電気設備の運転、構内清掃まで二十五種の業務を受け、百三十人を雇用していた。
会社の常務、牧田昭夫さん(61)を訪ねた。従業員はその後、百五十人まで増えたが、今は定年不補充で百三十三人までに減ったという。「将来は半減するでしょうな」。残った従業員も賃金カットが始まっている。
牧田さんも元動燃職員で九三年に今の職に移った。高校を出て五九年に就職。国内のウラン探査にタッチし、北海道で田淵さんと一緒に仕事をしたこともある。
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田淵さんも牧田さんも、従業員が計画の二百人に減る二〇〇八年が「一つの区切りになる」という。その後がどうなるかは国策次第である。
村は雇用の場確保にどう対応しているのだろうか。「国が縮小と決めた。新たな事業展開がないのだから要望といっても…」。助役の石原良栄さん(58)も打つ手がないといった様子だ。
宇宙のごみ(デブリ)の観測用レーダーサイトと展示館の計画も進んでいるが、雇用はわずかしか期待できない。
当時、富裕だった村財政も様変わりした。八四年度の当初予算は、歳入十三億円の半分を動燃による電源開発促進交付金と固定資産税が占めていた。本年度当初は歳入十五億七千万円に対して、技術センター分は固定資産税が二億一千万円だけである。
といっても村税収入のまだ七割近い額。三百戸余、千人を切る小さな村の動燃依存、そしてサイクル機構依存の仕組みは変わっていない。
結局、「ソフトランディングですな。施設廃棄のペースをゆっくりやってもらうしかない」。石原さんはそう願うだけだ。
人形峠事務所の歩み
▽プラント運転も停止
1955年のウラン鉱床の発見を受けて国は56年に原子燃料公社を設立。人形峠出張所も開設され、59年に採鉱試験が始まる。67年に動力炉・核燃料開発事業団が公社を継承。人形峠出張所は鉱業所を経て人形峠事業所へ改組された。
ウラン濃縮パイロットプラントは81年に全面運転を開始。続いてウラン濃縮原型プラントが88年に一部、89年に全面運転へと動きだした。
ウラン鉱石は海外からの輸入に転換し、人形峠は試験採掘で終わった。だが、各種プラントの建設による電源開発促進交付金と固定資産税が上斎原村の自主財源を豊かにしていった。
95年12月の動燃の高速増殖炉原型炉もんじゅのナトリウム漏れ事故、97年3月の東海事業所再処理施設での火災・爆発事故が続き、それに伴う一連の虚偽報告などが発覚。翌98年10月、動燃を改組して新組織、核燃料サイクル開発機構が発足し、事業縮小へと動きだした。
人形峠事業所も人形峠環境技術センターに改組され、ウラン濃縮技術は民間の日本原燃へ移転。鉱山跡の措置技術の開発と、ウラン濃縮施設の解体にともなう関連技術の開発という事業転換で、事業所の延命を図り、雇用を継続することになった。だが、460人の従業員は10年後の2008年に200人に減らす計画が進められている。2001年3月には原型プラントの運転を停止した。
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◆当時の記事から(84年10月、要約) 一九五七年に苫田ダム構想が表面化して、もう四半世紀たった。全国に名を知られた奥津町の町ぐるみダム反対運動も、ここに来てほころびが出始めていた。国、県の財政的な締め付けもあって、「どうせ逃れられないのなら」とダム推進派住民が公然と活動を始め、町内にじわじわと亀裂が生まれている。町外に代替地を取得する動きも加速してきた。県は水没後の振興計画をアピールするが、住民の古里放棄の準備だけが今、着実に進行している。
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▽古里を捨て新天地へ わだかまり今も消えず
当時、奥津町の黒木地区に住んでいた反対派の仕出業、石原鮮魚店主の石原知之さん(73)を訪ねた。事前の電話に「何を話していいか…。まあおいでなさい」と受け入れてくれた。
移転した「石原鮮魚店」は黒木地区から直線距離で七キロほど吉井川を下る。鏡野町役場に近い旧国道179号から少し入ったところにあった。
石原さんは補償交渉を受け入れ、九五年十月に長男(49)の妻の実家の土地に今の家を建てた。同じ場所に九七年五月、作業場を構え、鏡野町での新たな商売がもう軌道に乗っていた。
九五年といえば、町長がダムの受け入れを表明して五年。前年にはダム建設の基本協定の調印も終わっていた。取材当時、発足時の半分近い二百五十二人に減っていた苫田ダム建設阻止期成同盟も、十六人まで落ち込み、解散を表明した時期に当たっている。
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| 2005年春の完成を目指して工事が進む苫田ダム。えん堤手前は吉井川に沿って左が旧国道179号、右は水田地帯だった(岡山県奥津町) |
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石原さんは九三年まで阻止同盟の事務所に詰めた。だが、表で反対を唱え、裏で補償交渉を進めるといった人が増えていくため、解散を待たず阻止同盟から抜けたという。約二百戸の黒木地区で最後まで残った二戸だった。
「まじめに反対した人ほど、後に引けなくて苦労しましたな。ダムというやつは、本当に人をおかしくする」
客は奥津時代からの得意先も合わせ二倍近くに増えた。鏡野町の人口は約一万二千人と奥津の六倍。「ここは広い。移って良かった」と夫婦ともども口にしながら、なんとも自分では解決しようのない状況について語り始めた。
いつも下を向いていかにゃいけんと言うか、寄りがあっても、そうですか、というくらいで意見を言えん。私は仕事があるが、出た人はなかなか仕事に就けんからつらい。ダムの人、という見られ方がずっと続くような気がする。代替わりすれば、変わるとは思いますが…。
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石原さんを訪ねる途中、ダム建設に伴って開通した新国道沿いのあちこちに、真新しい民家が目に付いた。聞くと、思った通りダムで移転した人の家だった。
後で奥津町役場を訪ねて調べてもらった。町内の水没地権者四百七十七戸の44%、二百十一戸が鏡野町へ、次いで27%の百二十九戸が津山市へ移転し、町内には十六戸しか残らなかったという。
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| 奥津町から下流の鏡野町に移り、仕出業を続けている石原さん。反対派だったが結局、移転を受け入れざるを得なかった |
既に当時、百十戸が代替地を取得していたが、町内はゼロ。最も便利な南部の平地が水没するのだから、町内では山奥に入るしかない、というのが多くの声だった。その通りにことは進んだのである。
今はもう壊された阻止同盟の事務所で当時、石原さんは「ダム言やあ、山の中じゃと思うよの。それがここじゃ、町のど真ん中」と面白そうに訴えていたものだ。
実は、新たに訪ねた反対派だった一人は、取材には応じてくれたが「何か言うと、どうとられるか分からん。新聞には私が分かる形で出さないでほしい」と後から、クギを刺された。
反対運動から一人、二人と抜けていくにも、それぞれ理由がある。にもかかわらず言い訳のできない、人間同士のあつれき…。もとをただせば国と県の強硬姿勢が原因ではないかという。「ダムは山に造れと言ったが、聞いてくれない。水が余っているのに代替案もない。ダムありきだったんですな」
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あらためて、ダムが完成した後、水没地域の住民は、古里を懐かしんで帰ることがあるのだろうか、と考えた。
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| 水没する久田下原地区から山の上に移転、新築した久田神社。前を新しい国道179号が走る予定だ |
救いになる話を聞いた。奥津町役場近くの久田下原にあった久田神社が昨年九月、補償金で町内の雲井山トンネル北口近くに移転、再建されたという。氏子三百六十人。昨年十月の奉祝完成式典に続き、この八月は納涼夏祭りを開き、タレントも呼んで五千人を集めた。
宮司の大山富敏さん(48)は奥津町役場の職員である。九五年の最後まで「本気でダムに反対してきた」と言う。廃社か他の神社への合祀(ごうし)かの選択を迫られたが、「久田の土地の神様を合祀でもあるまい」と移転を選択した。自宅は、鏡野町に決めた。
水没地域でただ一つ、昔のように再建されたのが久田神社。毎日、参拝者が絶えないのを見て、大山さんは「家はもう草ぼうぼうでも、ここで休めるからだろう。ダムが完成してからも皆が奥津を訪ねるよりどころになるのではないだろうか」と希望をつないでいる。
苫田ダム計画の概要と歩み
▽構想から42年で起工
洪水調整、都市・工業用水、発電などを目的にした重力式の多目的ダム。建設省(現国土交通省)の構想浮上から四十二年目の一九九九年六月、本体工事を起工。総事業費千九百四十億円で二〇〇五年春の完成を予定している。
吉井川にかかるえん堤は奥津町久田下原にあり、高さ七十四メートル、長さ二百二十五メートル。総貯水量は八千四百十万立方メートル。水没地域の面積は、三百三十ヘクタール、農地面積は百五十五ヘクタール、戸数は五百四戸(奥津町四百七十七戸、鏡野町二十七戸)に上る。
奥津町では役場のある町内で一番広い平たん地が対象になったことから、五七年の構想浮上と同時に町ぐるみの激しい反対運動が広がり、計画はなかなか進まなかった。
だが、補助金と公共事業の締め付けで町政運営が難しくなり、ダム受け入れに動く住民も次第に増加。九〇年に町長が受け入れを表明する。
九四年八月にはダム阻止条例の廃止とともに、建設省と岡山県、奥津町、鏡野町四者がダム建設の基本計画に調印した。ダムの見返りとして九五年十二月、千三百八十五億円に上る奥津町地域総合振興計画の実施に関する協定も調印された。
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