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中国山地
明日へのシナリオ
「点検・あれから18年」 周防北・阿武地域(山口県北部)編
2002.5.29
 十八年前の連載「新中国山地」のその後をたどる特集は今回、周防北・阿武地域(山口県北部)を取り上げる。育林と緑地公園のロッジ運営に生きがいを見いだしていた二つの女性グループは、いずれも時代の厳しい波に洗われていた。全国でただ一つ、二年おきに役場の移転を続けていた旭村は、ようやく役場の固定化を実現したものの、平成の大合併に向けて、次の地域像をつかみかねていた。
(中国山地取材班)

 ◆当時の記事から(84年6月、要約)

 五五年に明木(あきらぎ)と佐々並(ささなみ)の二村が合併して誕生した旭村。当初、役場の位置を固定せずにおいたことが尾を引き、旧村意識の対立から毎年、そして六三年からは二年に一回、役場の移転を続けてきた。明木が役場の時は佐々並は支所。看板は表に「旭村役場」、裏に「〇〇支所」。戸籍、土地台帳は二カ所に保管。保育所から中学校まで二つずつ。公共施設も両地区に配慮して分散する。こんな二つのへそを持つ村が、一つの自治体であり続ける意味とは、いったい何なんだろうか。


2つのヘソ 役場移転 23回で終止符

「旭村役場」の文字の入った「モニュメント」と上田村長。地元の萩焼作家の作品だ。引っ越し時代にはこうした固定物は作れなかった
■大合併控え未来を探る

 二十三回の引っ越しを経て役場が結局、今の明木に事実上、固定されたのが九五年四月。もう七年たつ。それまでの流れを整理してみたい。

 最初の動きは佐々並出身の大石博英村長(79)が始めた。前回の取材で「何とかせんと、とは思うとります」と言っていた大石さんが、最後の五期目で腰を上げたのだ。

 九三年一月、村議会全員協議会の場で「庁舎の固定化を考えたい。とりあえず今の佐々並に置いて議論を」と持ち掛けた。これが明木側の議員の反発を買い、四月には慣例通り明木へ移転する。
農産品の直売所として繁盛する佐々並の道の駅「あさひ」。「明木にもできるそうな」といったうわさが出るところが旭村らしさか

 二年後、くすぶっていた火種が燃え上がる。毎回、全員一致で可決してきた役場の移転条例案が明木側議員の反対で初めて否決され、役場は明木から動けなくなった。

 ここで大石さんは引退。置き土産は明木、佐々並各十人の住民に委嘱した「村庁舎固定化協議会」だった。四月の村長選では明木出身の元助役、上田康弘さん(67)が無投票当選へ。「委員会の答申に従う」と公約していたため、「庁舎は今の明木に」と、現状追認の答申が出た九六年一月、移転問題は名実ともに終止符を打つことになった。

 職員の手作業で数十万円で済んだ引っ越し費用も、コンピューター時代には一千万円を超える。「無駄」「恥ずかしい」という意識が地区を越えて広がる。協議会の村民アンケートでは83%が固定化を望む。新たに役場を造る財政力はない。政治の決断の時期に入っていたのである。
引退して7年の大石・前村長。役場固定化への布石を打ったが実行は次世代へ

 それにしても、役場移転をめぐる旭村の政治は不思議な仕組みだ。役場の移転条例案は重要議題だから議会(定数一二)の三分の二(八)以上の賛成が必要。だが明木千二百余人・佐々並約九百七十人という人口を反映し、議員は明木七人、佐々並五人の勢力図。相手方の同意なしに可決は不可能であり、一方が「ノー」と言えば、その時点でたちまち固定化してしまう。

 提案権のある村長が、条例を出さなくても役場は固定化される。村長の決断次第の仕組みでもあったのだ。

 結局、大石さんは自分の時代の解決は避けた。「いずれ広域合併の時代は来る。無理してまでとの気持ちはありましたね」。上田村長も「私は公約通り答申に従ったまで。たまたま明木に役場があったんですいね」と、決断といった表現は避ける。

 仲は悪いが決定的に争わない。その知恵は、大石さんが明木の現職を破って初当選した七五年以来、無投票が続く村長選にもうかがえる。

 昭和の大合併で生まれた旭村は今、平成の二度目の大合併を控える。想定される萩市・阿武郡一市三町四村(阿東町を除く)の枠組では旭村の存在はますます小さくなる。その時、長年の地区意識はどうなるのか。「婦人会と青年団は一緒になるかな…」というくらいで、上田村長も読みかねているようだ。
旭村役場関連年譜
55年4月1日 明木村と佐々並村が合併し、旭村が発足。
91年4月   村長に佐々並出身の大石博英氏が無投票5選。
93年1月   大石村長が初めて「庁舎の固定化を考えたい」と村議会全員協議会で発言。
2月   全員協議会で初めて固定化について話し合い。結論は出ず。
3月   役場の位置に関する条例案(移転条例案)を可決。
4月   本所を明木に移転。23回目、事実上、最後の引っ越しに。
94年3月   大石村長が村民の意見を聞くため村庁舎固定化協議会を発足。
95年3月   協議会が「役場の固定化に賛成する」との中間報告▽議会が移転条例案を初めて否決。役場は事実上、明木に固定へ。
4月   村長に明木出身の上田康弘元助役が無投票当選。「協議会の結論に従う」と公約。
96年1月   協議会が「庁舎は明木に固定が望ましい」と最終答申。
99年4月   上田康弘村長が無投票再選。
9月   助役に明木出身者。収入役廃止。三役の地区バランスの慣例も崩れる。
02年4月1日 佐々並支所を併設した旭村活性化センター開設。

 ただ、合併すれば「どっちもまた支所ですいね」と上田村長。明木の役場は増改築したが、気がかりだったのが佐々並支所。それも四月、村活性化センターに併設して新設した。いずれも旧村時代の役場。「あっちは新しいが、こっちは古いのを改築して…」と地区配慮をにじます。

 明木の住民からこんな話を聞いた。九四年、佐々並に開業した村の第三セクター、道の駅「あさひ」に対応し、村が明木にも道の駅をつくるというのだ。わずか十キロの距離である。本当だろうか? 上田村長から「またですか」という反応が返ってきた。

 道の駅の農産物販売が好調なので、明木の日曜市も毎日開業できるようにしてほしい、という農家の要望を受けて、村が今、拡幅中という。「あちらにできれば、こちらにも同じものを」という思考回路から生まれた誤解、ともいえるだろうか。

 そういえば、両地区の二重投資について大石さんは「かなり広い地域だから、その時、その時ではね、必要はあったんですよ」と説明していた。両地区の対立は案外、必要なものを得る住民の共存の知恵、とも思えてきた。


 ◆当時の記事から(84年6月、要約)

 女性が管理する造林地があると聞いて、旭村の下横瀬地区を訪ねた。主婦十六人が運営する名付けて「下横瀬婦人の山」。山口県の奨励で七三年四月、村有林八ヘクタールにヒノキを植えて当時は十一年たったところだった。村との分収方式で八割がグループの取り分。みな育林技術士の資格を取って夫顔負けの熱の入れよう。輸入木材の攻勢で国産材相場の低下傾向は覆い難い時代に入っていたが、「山を担保にハワイに行こう」と、まだ希望の方が勝っていた。


かあちゃんの山 育林の熱気 今は昔

■資格や技術生かせず

 「最近はあまり山に入りませんが、まあ行ってみましょういね」ということで当時、取材した林久子さん(60)の下横瀬の家から、婦人の山の写真を取った場所まで車で登ることになった。
久しぶりに入った自分たちの山。ヒノキの生育状況を見る林さん(右)と竹内さんの思いは複雑だ

 当時は「デコボコ林道を二キロ、さらに歩いて二十分」とある。「今はみな車でいけますいね」。近所の竹内イツ子さん(70)も「久しぶりに」と同行する。

 大きくえぐれたわだちにタイヤを取られながら、一速のまま急坂を波打つように進む。次第に背が高くなる雑草で、わだちの深さも分からなくなった。多分ハラを擦るぎりぎりだろう。十分くらいでようやく、車の方向転換ができそうな開けた場所にたどり着いた。待っていたように小雨がぱらつき始めた。

 「すらりと伸びたヒノキが整然と斜面を覆い尽くしている。見事に枝打ちされた直径十センチ前後の幹が並ぶ」

 当時、そう形容した山を眺める二人の表情が険しくなってきた。直径十五、六センチのものに交じって、十センチくらいのひょろひょろしたものも無数にある。密集して大きさも不ぞろいだ。
「下横瀬婦人の山」の標柱。18年前のものは朽ちて今は2代目。場所も移った

 「枝が生えてないのがようけあるね。三分の一は間伐してやらんと腐ってしまう」。林さんが言えば、「みんな見にこんから何とも思うてない。見せても、もうどうにも、ね」と竹内さん。

 二人のやりとりを聞いていて「久しぶり」の意味がようやく分かってきた。最後に婦人の山に入ったのは林さんが二年前、竹内さんがその五、六年前。一年ごとに回ってくる会長の時に入るだけなのだ。桜のあるこの場所の草を半日かけて刈り取るのが、会長の役目という。

 婦人の山のメンバーは二人亡くなって十四人になった。つまり一人が山に入るのは十四年に一回ということになる。一緒に集まることもなくなった。なぜこんなことに。「お金にならんからよねえ」。二人が一致した。

 原木の安さと円高でその後も外材の輸入は拡大し続け、今や国内の木材供給量の八割を占めるまでになった。当然、国産材の値段は下がる。間伐材も売れない。

 当時、熱心に指導した県の担当職員も「もう来んようになったね。林業事務所も合併でなくなったしね」「みな定年になったろうね」。もう昔話になってきたのだ。

 最後の間伐がいつだったか聞いた。はっきりしないが、四年前くらいではなかったかという。林さんは、補助が出るので自分の家の山と一緒にやってもらったという。

 その自分の山は、婦人の山の熱気に応じて兼業農家の夫、隆己さん(60)が十ヘクタールにヒノキを植えたものだ。家から望める、かつて炭焼きの原木に切り出していた雑木林は今、見渡す限りのヒノキの造林に変わっている。

 だが、だれよりも山好きという隆己さんも山に入る回数は減ってきた。「自分の山でもこれだから、まして共同の山となるとねえ」と林さん。

 当時育林技術士B級だった林さんは、その後A級を取得。八八年には山口県指導林業士にも認定されている。だが、そこまでだった。林業機械の扱い、測量技術…。「もう忘れました」

 農協に頼まれてやっていた食品加工を八九年には、自宅で本格的に取り組み始めた。名付けて「りんどう香房」。「酢大豆」「かりんとう」といった大豆製品が自慢だ。村内の道の駅や日曜市などで「健康食品ということで、よう売れます」。今度は調理師免許を取った。

 ハワイ旅行は、どうなったのだろうか。「そのうち旅費が安うなって、いつでも行けるいね、と言っているうちにみんな年を取ってきてね」。二人が面白そうに笑った。


 ◆当時の記事から(84年6月、要約)

 鹿野町が、ブナの原生林の南限といわれる長野山(一、〇一五メートル)の山頂一帯をキャンプ場、遊歩道などを備えた「長野山緑地公園」としてオープンして五年。山頂ロッジの食堂と売店は地元、渋川地区の長野山生活改善実行グループ連絡協議会のメンバーが運営していた。毎年、シーズンの四月から十一月まで交代で詰める。客足は順調に伸びていた。だが高齢化でメンバーは当初の十二人が既に八人。いつまで続けられるか、との不安も抱えていた。


主婦と公園ロッジ ライバル乱立 苦戦

■利用料値下げに期待
長野山ロッジから出てきた植田さん(右)と福田さん。開設からもう23年。施設も運営メンバーも年を取ってきた

 当時、会の代表を務めていた植田忍さん(63)をロッジに訪ねた。その後メンバーに加わった福田節子さん(68)と二人が、この日の当番という。四月から十一月まで、車で登り、朝八時から夕方五時まで交代で詰めるという毎日は、今も変わらず繰り返されている。

 よく続けられましたね、と話を向けると、「頑張らにゃ、頑張らにゃと思うてね、やってきたんですよ」と植田さんが応じた。当時四十五歳。植田さんの写真の載った記事を見ながら、福田さんが「このころは皆、若かったね。今なんぼになったん?」。「恥ずかしいわ。もう年金もらうのが近こうなって」と植田さんが笑わせる。

 それなりにロッジの暮らしを楽しんでいるようだが、話からは状況の厳しさが伝わってくる。

 大きく変わったのは運営方式である。行革で町が管理人の職員を引き揚げた。食堂と売店だけを受け持っていた会に、ロッジ、バンガロー、キャンプ場など施設全体の運営を委託してきたのである。夜間だけ嘱託の男性が詰める。

 町は利用料収入を受け取る一方、運営委託料として年間一定額をまとめて会に支払う。今年で四年目に入った。「みなさんで上手に運営しなさいよ、というんでしょう。残りが日当だから」と植田さん。

 例えば水道料や建物の修理は町の負担。六、七万円かかるトイレのくみ取り料は運営費。これが年二、三回。草刈りに人を雇っても運営費だ。食堂収入は会のもの。材料費は当然、自前。なんだか話がややっこしくなってきた。

 要するに、各自が出ただけ日当を支払うことができる、ぎりぎりの水準ということらしい。自前の農産加工品を増やして、売店だけでなく農協のショップやイベントでも販売するなど、それなりの工夫もしている。ただ当時四千円だった日当はまだ五千円どまり。赤字になるので長く上げていない。

 多い人でひと月に十五日詰めて七万五千円の勘定。冬場の四カ月は休みになる。植田さんは「皆農家なんで何とかなるが、生活できる給料が払える仕事とはいえませんね」と言う。

 実は、役場で聞くと運営委託費は「客が減れば減額」という条件が適用され毎年、最大の15%カットが続き、四百二十六万円にとどまっているという。つまり長野山は、登山者の減少という構造的な問題を抱えているのである。

 その減り方には驚かされる。当時、二万人台だったのが昨年は四千四百八十七人。九四年の二万三千三百人をピークにそれこそ下降の一途だ。宿泊客も同じ。五千百九十人が九百九十七人と、いずれもピークの五分の一の水準である。

 経済課の担当者がぼやく。「どこにもいろいろな施設ができて、こちらは古くなってしまった。客も要求が厳しくなって、バンガローにトイレがあるか、冷蔵庫があるか、ですから…」

 肝心のメンバーは当時の八人が今は五人に減っていた。七十五戸、百六十人の渋川地区では、「もう来てくれそうな人はおらんねえ」と二人が顔を見合わせた。

 それでも町は「できるだけ頑張ってもらうしかない」とのハラだ。民間業者に引き受け手はない。そこで「応援します」と今シーズンから、ロッジなど施設利用料の半額値下げに踏み切った。吉と出るかどうか。

 温泉ブームに象徴される自治体の体験交流施設づくりは、中国山地でも盛んだ。その乱立の抱える問題点が、先発組の長野山に集約されているように見えた。


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