◆当時の記事から(84年6月、要約)
女性が管理する造林地があると聞いて、旭村の下横瀬地区を訪ねた。主婦十六人が運営する名付けて「下横瀬婦人の山」。山口県の奨励で七三年四月、村有林八ヘクタールにヒノキを植えて当時は十一年たったところだった。村との分収方式で八割がグループの取り分。みな育林技術士の資格を取って夫顔負けの熱の入れよう。輸入木材の攻勢で国産材相場の低下傾向は覆い難い時代に入っていたが、「山を担保にハワイに行こう」と、まだ希望の方が勝っていた。
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■資格や技術生かせず
「最近はあまり山に入りませんが、まあ行ってみましょういね」ということで当時、取材した林久子さん(60)の下横瀬の家から、婦人の山の写真を取った場所まで車で登ることになった。
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| 久しぶりに入った自分たちの山。ヒノキの生育状況を見る林さん(右)と竹内さんの思いは複雑だ |
当時は「デコボコ林道を二キロ、さらに歩いて二十分」とある。「今はみな車でいけますいね」。近所の竹内イツ子さん(70)も「久しぶりに」と同行する。
大きくえぐれたわだちにタイヤを取られながら、一速のまま急坂を波打つように進む。次第に背が高くなる雑草で、わだちの深さも分からなくなった。多分ハラを擦るぎりぎりだろう。十分くらいでようやく、車の方向転換ができそうな開けた場所にたどり着いた。待っていたように小雨がぱらつき始めた。
「すらりと伸びたヒノキが整然と斜面を覆い尽くしている。見事に枝打ちされた直径十センチ前後の幹が並ぶ」
当時、そう形容した山を眺める二人の表情が険しくなってきた。直径十五、六センチのものに交じって、十センチくらいのひょろひょろしたものも無数にある。密集して大きさも不ぞろいだ。
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| 「下横瀬婦人の山」の標柱。18年前のものは朽ちて今は2代目。場所も移った |
「枝が生えてないのがようけあるね。三分の一は間伐してやらんと腐ってしまう」。林さんが言えば、「みんな見にこんから何とも思うてない。見せても、もうどうにも、ね」と竹内さん。
二人のやりとりを聞いていて「久しぶり」の意味がようやく分かってきた。最後に婦人の山に入ったのは林さんが二年前、竹内さんがその五、六年前。一年ごとに回ってくる会長の時に入るだけなのだ。桜のあるこの場所の草を半日かけて刈り取るのが、会長の役目という。
婦人の山のメンバーは二人亡くなって十四人になった。つまり一人が山に入るのは十四年に一回ということになる。一緒に集まることもなくなった。なぜこんなことに。「お金にならんからよねえ」。二人が一致した。
原木の安さと円高でその後も外材の輸入は拡大し続け、今や国内の木材供給量の八割を占めるまでになった。当然、国産材の値段は下がる。間伐材も売れない。
当時、熱心に指導した県の担当職員も「もう来んようになったね。林業事務所も合併でなくなったしね」「みな定年になったろうね」。もう昔話になってきたのだ。
最後の間伐がいつだったか聞いた。はっきりしないが、四年前くらいではなかったかという。林さんは、補助が出るので自分の家の山と一緒にやってもらったという。
その自分の山は、婦人の山の熱気に応じて兼業農家の夫、隆己さん(60)が十ヘクタールにヒノキを植えたものだ。家から望める、かつて炭焼きの原木に切り出していた雑木林は今、見渡す限りのヒノキの造林に変わっている。
だが、だれよりも山好きという隆己さんも山に入る回数は減ってきた。「自分の山でもこれだから、まして共同の山となるとねえ」と林さん。
当時育林技術士B級だった林さんは、その後A級を取得。八八年には山口県指導林業士にも認定されている。だが、そこまでだった。林業機械の扱い、測量技術…。「もう忘れました」
農協に頼まれてやっていた食品加工を八九年には、自宅で本格的に取り組み始めた。名付けて「りんどう香房」。「酢大豆」「かりんとう」といった大豆製品が自慢だ。村内の道の駅や日曜市などで「健康食品ということで、よう売れます」。今度は調理師免許を取った。
ハワイ旅行は、どうなったのだろうか。「そのうち旅費が安うなって、いつでも行けるいね、と言っているうちにみんな年を取ってきてね」。二人が面白そうに笑った。
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