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愛媛県越智郡生名村の村上一女(かずめ)さん(51)は、金属溶接を手掛ける「村一組」の親方である。生名は、因島から村営フェリーで二、三分の島。造船王国だった因島市のベッドタウンと呼ばれた。
「島が沈む」と言われた日立造船因島工場の合理化は、一九八六年のこと。村上さんが勤めていた日立の協力会社はそれより十年ほど前、オイルショックの影響で、いち早く契約を断たれた。当時、二十歳代半ば。結婚して一男一女が生まれ、生活が落ち着いた矢先だった。
しばらくは協力会社の友人を頼り、神戸や和歌山、大阪へ単身で赴いた。子供はかわいい盛りで、毎週金曜には新幹線に飛び乗っていた。「仕事はどこでもできる」。一年を待たず、生まれ育った生名に拠点を置こうと決めた。
生名島の対岸で光を放つ因島の工場。かつての造船王国の象徴だった
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妻の孝子さん(52)に促され、照れながら話してくれた日立時代の思い出。「全国技能コンクールの下請け溶接部門で優勝した。当時の会長さんに『頑張っているな』と声を掛けてもらったのはうれしかった」
七年前に会社の看板を正式に上げ、一年後から伯方町にある造船会社の協力会社になった。職人は大卒の新人から五十歳代半ばのベテランまで十二人。「自分の仕事にプライドを持て、いいかげんに済ますなと、それだけ言うんよ」。職人と一緒に現場に出る村上さんの指導は、簡潔である。
日立の合理化により、正規の従業員だけで二千人余りが職を失った。生名村は大波を被り、三千二百人余りいた人口は三分の二に減った。そんな中、生名での暮らしにこだわった職人は村上さんだけではない。
中川初義さん(51)は弓削町と瀬戸田町に住む元同僚と三人で、八九年、生名村に有限会社を設立した。産業機械の組み立てや修理を手掛ける会社は、三人の仲間にちなみ、「三友(みつとも)工業」と名付けた。「仲間や故郷を思う土地柄が職人を支えたんじゃないかな」。日立の最後の組合長だった出口〓(たつる)さん(66)は言う。
日立に通っていたころの村上さんは、残業で帰宅が遅かった。孝子さんはよく子供を連れて海岸に行き、対岸の明かりを眺めた。「造船が昔みたいに景気良かったら、島に私らみたいな夫婦二人暮らしもそんなにおらんのにね」。生まれた時に「日立に行く子だ」と思った長男は、大阪で職に就いた。
協力会社になってからも賃金カットがあったり、社長業も楽ではない。「けど、あそこの仕事はダメやと言われたことはない。自信はある」と村上さん。「村一組」の名前には、村一番の親方になる夢も込めてある。
【お断り】〓は人へんに事のつくりと書く字ですが、JISコードにないため表示できません。

