夢のゆくえ <因島市>


■ 和やか 夜の日本語教室 ■

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 後九時前に生徒がそろった日本語講座は、日時の復習から始まった。「サンガツヨウカ、ハチジゴジュップンデス」。順番に時計の針を見つめ、一つひとつを吟味しながら言葉を発する。「クジジュップンマエデス」。順番の回ってきた一人が、済ました顔で言い回しを工夫してみせた。

 毎週水曜、因島高校の定時制校舎に、日系ペルー人が通ってくる。夕食代わりのうどんをかき込み、黒板の前に机を並べる。五、六人の生徒に講師は三人。手作りの教材で、カタカナの書き取りや数え方を習う。

 日本語講座は一九九二年に始まった。きっかけは日系ブラジル人の児童が通う島内の小学校教員が呼びかけた交流会だった。誘いを受けた定時制の細川洋教諭(39)が、就学を希望するブラジル人労働者の、十五歳の少女に出会った。

「ワタシハクツヲ、ニソクモッテイマス」。右足、左足を数えた。「イッソク、ニソク・・・」「え、えー、そりゃあ、違うじゃろう」。半田先生(右端)がバンザーイ
 時制の生徒が減り、先生たちは就学希望者の掘り起こしに努めていたところだった。「勉強したい言うんなら、こちらも望むところ」。同僚の半田浩正教諭(38)と就業先の会社や教育委員会にかけ合い、少女の通学が始まった。日本語の時間以外は、他の生徒と一緒に授業を受けた。

 間もなく、毎日の通学が無理な就労者を対象にした週に一度の公開日本語講座も始めた。

 半田先生は振り返る。「ぼくらは、彼らがなぜ日本へ来とるんかも知らんかった。労働基準監督署や職場へ出入りするうち、いろんな勉強をさせてもろうた」。時には移民史もひもといた。広島は全国屈指の移民県で、造船関係の雇用がある島には多くの日系二・三世が「デカセギ」に来ている。「夢を抱いて祖国の地を踏んだ。少しでも力になれるのなら」

 定時制への編入学は簡単ではなかった。一年目は義務教育の年数不足で入学が認められず、自主通学になった。が、あきらめなかった。「車のハンドルにあそびがあるでしょう。教育の場にもそれがあっていい」。細川先生の言葉に力が込もる。

 れまでに九人の日系労働者が定時制に編入し、多い時には二十人が講座に通った。労働者が減ったり転勤したりで四年前から講座は休講状態だったが、以前、受講生だったタニグチ・ハビエルさん(22)がこの二月、また日本語を勉強したいと、仲間を連れて学校を訪ねてきた。今、十七歳から三十四歳の六人が通っている。

 「仕事の指示もテレビから流れる声も全部、日本語。何をするにも言葉が分からないことには・・・」。日本に来て八年のトヤマ・エンリケさん(28)が、よどみない日本語で言う。和気あいあいとした雰囲気の中にも、切実さが伝わってくる。

 「次はいつにするかの?」と半田先生が聞く。取材に訪れた日は試験期間中で、変則の月曜開催だった。「次の水曜はどうや?」。水曜といえば二日後。週に二度はきついかなと思う間もなく、皆がうなずき合い、次回の日程は決まった。



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