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(2)政治の力
「二人そろってくれば、何をしにきたか分かる。なまくち橋(生口橋)のことだろう。心配せんでもいい。それより、三本とも橋が架かったとき、橋のたもとに一県一人ずつ先覚者の銅像を建てにゃいかん。広島は池田勇人だ。愛媛は白石春樹。県議時代から一番長く苦労し、橋、橋と言って歩いた」 広島県知事の竹下虎之助(74)と愛媛県知事の白石春樹(昨年三月に八十五歳で死去)を前に、田中角栄の陽気な怪気炎が続いた。田中が倒れる直前の一九八五年二月のことである。 もともと、三ルート同時着工を唱えてきた田中。オイルショックによる着工凍結、そして解除後も推進の旗頭だった。その田中とのパイプを切り札にした地方政治家が白石である。橋にかける熱意は、本土の広島に比べさらに強烈だった。 1ルート4橋へ道 七五年に凍結解除が決まった「一ルート三橋」の壁をどう打ち破るか。白石は田中の示唆を受け、「漁業補償だけは全ルート一括で」と国に働きかけた。愛媛県東京事務所長を長年務めた中川友忠(73)は「途中打ち切りをさせないための策。政治家としての執念だった」と振り返る。その結果、大三島橋の着工時に伯方・大島大橋の漁業補償が認められた。「一ルート四橋」への道を切り開いたわけである。 次の関門は生口橋。その着工問題が大詰めを迎えた八五年十二月二十五日夕、上京中の白石に本四公団の高橋弘篤総裁から電話があった。「大蔵のガードが固い。目白(田中派)から大蔵省主計局次長に強く言ってほしい」。二時間後、別の筋から「金丸幹事長から言ってもらった。滑り込む」との連絡。「これで、このルートは行くな」。白石は中川に漏らした。 自民代議士が奔走 本四架橋は、政治家にとって政治生命にかかわる重大事になった。尾道―今治ルートでは、それぞれの起点都市を地盤にした自民党代議士が熱心に動いた。旧田中派から新進党に転じた佐藤守良(九六年に七十三歳で死去)と旧渡辺派長老の越智伊平(77)である。越智は「橋のために生まれてきたようなもの。建設大臣も希望してなった」という。八七年十一月のことである。その年末、来島海峡大橋の着工が決まった。
建設自体が目的に 「本四架橋は、四国の離島性解消という積年の悲願達成のシンボルだった。橋をどう利用するか、といった経済合理性の追求より、造ること自体が目的になってしまった」。「白石春樹の研究―ある地方政治家の軌跡」(啓文社より九三年発刊)を共同執筆した愛媛大法文学部教授北原鉄也(45)の見方である。 田中は「日本列島改造論」(七二年)で、本四三橋で西日本が一体化し「四国の人口はやがて六百万、八百万人に増える」と予言した。実際には四国人口は四百万人余りでここ十年余り微減傾向。橋を「使う時代」に入り、地域の自立性や個性化が叫ばれ始めた。 愛媛側の架橋起点である来島海峡大橋のたもとに、白石の銅像を立てる話は聞かない。(敬称略)
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