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(2)見えない県境 人のつながり再び息吹
「壁」築いた車社会 かつては祭りの交流も盛んだった両島。人的なつながりが最も薄れた時に橋が架かるのは、皮肉な巡り合わせだ。瀬戸田町長の柴田大三郎(53)は昨年秋、多々羅大橋のライトアップを上浦町に持ちかけたが、実現していない。「県が違うと難しいもんだなあ」。柴田は、見えない県境の存在を実感した。 海が人、物、情報を運ぶハイウエーだったころがある。瀬戸内の近世史を研究してきた広島大名誉教授の渡辺則文(72)は「物資を自由に動かし、人々の移動も盛ん。芸予の島々は、生活や経済の面からも地域共同体だった」という。海を介した生業は、モータリゼーションの幕開けとほぼ同時に衰退していった。 代表格が塩。瀬戸田町には、広島、愛媛の二市五町村の塩田から濃縮した塩水が集まった。塩業組合理事だった杉原幸雄(76)は「塩業一家として県境を越えた連帯感があった」と振り返るが、一九七一年には解散に追い込まれた。 見つめる先は県庁 陸上運送に押されて海運は振るわず、港も衰退していく。愛媛の島々まで商圏に入れていた尾道は、次第に拠点性を弱めた。そして昭和五十年代半ばの造船不況が地域経済にとどめを刺した。 海に根差した産業が求心力を失った代わりに、地場経済を支えたのが公共事業である。離島振興法の恩恵もあって、箱物や港湾、護岸などの整備が途切れることなく進んだ。今も自治体は、地域振興を旗印に、国や県への補助金、交付税を求め競い合う。 そうした構図を、元瀬戸田町長の和気成祥(69)は「結局、見つめる先はお互いに県庁。隣り合っていても、県境を挟むと遠い存在になってしまう」と表現する。「県が違えば、隣の島でなにが起きているのか分からん」との声も聞かれる。情報化時代に、マスメディアの報道が県域割りであることも響いた。 芸術文化架け橋に
思わぬ追い風も吹き始めた。本年度の文化勲章に瀬戸田出身の日本画家、平山郁夫(68)と上浦出身の書道家、村上三島(86)が選ばれた。瀬戸田には平山郁夫美術館、上浦には村上三島記念館があり、いずれも架橋完成後の観光スポットでもある。 上浦町長の高橋幸意(70)は「これを機に、芸術交流を図りたい」、柴田も「共同展示会の計画を話し合いたい」と意気込む。芸術文化の連携という、新たな架け橋が県境を結ぶ日も近い。
(敬称略)
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