'98/3/14

タイトル

 支え合う老い明るく −生涯現役−

 寒のさなか、山口県東和町の沖家室(おきかむろ)島は初雪が舞っていた。

 架橋前、町営渡船の船長だった西村貞勝さん(80)に会うため、履物屋で道を尋ねた。店の岡引セツヨさん(82)は「一緒に行きましょ」と、すたすたと通りに出た。

 路地奥でセツヨさんは戸を開け「西村さん」と声をかけた。家族同然のおおらかさである。

 一本釣りでタイを追っていた貞勝さんは、一九六四(昭和三十九)年ごろ、収入が安定する町営渡船に乗る。五トン足らずのせと丸。対岸の佐連(され)まで五分余りだった。

 「船は家室の道路じゃから、少々しけても出しましたよ」。それでも台風、急病など限界があった。

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写真
沖家室大橋
 水揚げする漁師もお年寄りがほとんど。声はまだまだ若い
(向こう側が屋代島)
 五五年、四村で東和町ができた時、屋代島と沖家室を結ぶ橋は合併条件のひとつだった。悲願の沖家室大橋が開通するのは、八三年春である。

 周囲五キロ、屋代島の属島の小さな島は、かつて朝鮮半島などへ出かけた漁業で栄え、人口も多い時は三千人を数えた。ハワイなどへの出稼ぎも盛んであった。

 戦後、海外漁場を失い、島周りの漁場も荒れて漁が廃れると、人口は激減する。七六年に本土と屋代島を結ぶ大島大橋ができて、さらに減る。沖家室大橋も歯止めにはならなかった。

 今は人口が約二百六十人。そして十人に七人が六十五歳以上である。高齢化率は全国でとび抜けて高い。老人クラブも七十歳以上でないと入れない。

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地図
 次の日、履物屋の前を通ると、セツヨさんは火鉢の上で干し大根をゆがいていた。

 夫が戦死し、新聞配達もして二人の子を育てた。長女は大阪、長男は屋代島にいて、今は独り暮らしのセツヨさんだが、寂しさはみじんも感じさせない。

 「野菜をもろうたり、みんなで助け合うてやりよるんです」とセツヨさん。「昼からは友達と花札で遊ぶんよ」。一円玉三十枚がチップ替わり。「夢中になると、人のうわさ話もせんしね…」。人間関係を保つ知恵でもある。

 島の民宿に大谷行雄さん(74)ら郷土史会の面々が集まった。「橋ですか。宮本先生が県などへ後押しして下さったおかげです」と大谷さん。離島振興に尽くした東和町出身の民俗学者、故宮本常一氏である。

 「地域はそこに住む人が自らつくらん限りよくならん、というのが宮本先生の考え」 「橋がなかったらUターンもないし、人口も今の半分じゃったろう」

 八木岩正さん(68)は九〇年に定年を迎え、大阪から沖家室へ帰った。ここ数年で二十人を超すUターン者の一人だ。

 「定年後することのない都会暮らしを思うと、古里が恋しくなった」という八木さんは、自治会や民生委員の仕事で忙しい。山や浜を清掃し、独り暮らしのお年寄りに声を掛ける。午前中は漁に出て、釣った魚は大阪の子に送る。「この島では、年取っても、それぞれ役割があるんです」

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 橋のたもとの石碑に「全国同胞の協力によってできました。感謝します。沖家室島民」と彫ってあった。宮本氏の遺志であった。

 「感謝の思いは、どうやって島を守るかです」。年に幾人は鬼籍に入る現実の中で、生涯現役の島は今、懸命に答を探している。


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