
'98/3/15
産直の魚も受け繁盛 −焼き鳥チェーン− 深夜の鹿島大橋を走り去る水槽付きの二トントラックは捕れたての魚を広島、呉方面に運び出す。 倉橋島の南に連なる人口五百五十人足らずの鹿島は、焼き鳥で名をはせた居酒屋の発祥の地である。地物の魚は、ゆかりの居酒屋に直送される。
「まあ広島、呉で鳥好、鳥八など頭に『鳥』が付く焼き鳥屋のほとんどは、鹿島にゆかりがある」 本家本元は、と問えば「このわしです」とさらりと言った。 鹿島のイワシ網元の三男だった上瀬さんは戦後まもなく島を出る。呉、大阪で四年間修業し、一九五二(昭和二十七)年、呉市中通で「鳥好」を出した。 上瀬さんは、硬くて捨てていた鳥皮に目をつける。大豆を入れて蒸し、みそで炊くと軟らかくなった。皮のみそ炊きは酒のさかなに合い、人気を呼ぶ。 呉の町は造船、製鉄の工場が復活。たくさんの労働者が、仕事帰りにのれんをくぐった。 昼は夜勤明けの客が立ち寄り串(くし)カツで酒をあおった。夕方からは、店の前に行列ができる繁盛ぶりだった。 正午から夜中の午前零時までの十二時間営業。「呉の街も活気があっての。店閉めてから寝る間も惜しんで、焼き鳥の串を刺したものよ」。焼き鳥は串カツ、レバー、砂ずり、なんでも一本十円、コップ酒一杯五十円。行列する客のため、注文は一人三百円までとした。 人気は上々で五、六年で店は七軒に増える。九人兄弟のうち三人が店を開く。それでも人手が足らず、親類、近所などを次々島から呼び寄せた。 五八年には広島市の繁華街に進出。三十人がずらりと座れるカウンターの目の前で職人が焼くスタイルで当たり、繁盛した。 「鳥」の付く鹿島ゆかりの焼き鳥屋は、島の若者の就職先にもなった。上瀬さんも中学、高校を出た若者を何人も引き受けた。育てた職人は数知れず、多くが独立して「鳥」の付く店は各地に広がった。いまでは西日本を中心に、分かっているだけでも六十店はあるという。
焼き鳥屋がメニューに魚を加えるようになったのは、六〇年代に入ってから。焼き鳥ブームが一段落したころのことだ。上瀬さんは父親の言葉を思い出し、いけすを付けたトラックを購入。「産地直送」の新鮮な地魚を売り物にした。 鹿島ゆかりの焼き鳥屋は、焼き鳥と活魚の二本立てで、再び隆盛を極める。 七五年の鹿島大橋開通までは、対岸の倉橋町室尾の港に、鹿島の漁師が水揚げする魚をトラックで待ち受けた。架橋後は瀬戸の港までトラックが来る。
上瀬さんは十年前、店やビルを売って島に帰った。島は年寄りばかりが残る。「本家取りまで島から出したいうて、攻められるんよ」と苦笑いする。 「島におったがええんか。町へ出て成功するんがええんか」との言葉をぐっと飲み込む。 頭上の橋を頻繁に走り去る魚輸送トラックの音に、店々の繁盛ぶりを知り、胸をなで下ろす。
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