'98/3/24

タイトル

 隔絶の海に悲願実る −「人間回復」

 本土と長島を隔てる瀬溝の海峡は、わずか三十メートルしかない。

 岡山県邑久町虫明沖の長島には愛生園、光明園と二つの国立ハンセン病療養所がある。不治の病として忌み嫌われ、国の誤った強制隔離政策により収容された患者にとってこの海峡は、家族や社会との隔絶を意味する深くて暗い、遠い淵だった。

 その海峡に一九八八(昭和六十三)年五月、邑久長島大橋が架かった。全国のハンセン病療養者らが「隔離」からの解放を求め、十七年間の架橋促進運動を実らせた。「人間回復の橋」といわれるゆえんである。

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写真
邑久長島大橋
わずかな距離だが、ハンセン病療養者には社会との隔離の海だった
(右側が長島)
 戦後まもなく収容され、島での暮らしが大半の宇佐美治さん(76)は、開通の日のことをいまも思い起こす。

 開通式は、本土側住民と両園代表が橋の真ん中でしっかり握手をして、お互い完成を祝福し合うものと思っていた。

 そうではなかった。県知事らがテープカットし、車いすや仲間に手を引かれた約二百五十人が渡り初めした。しかし本土から渡って来る人はなかった。

 宇佐美さんは「橋が架かっても、差別の現実はなんにも変わらない」と感じた。

 架橋後十年が経つ。架橋当時、両園で千四百余人いた入所者は千三十人に減った。新たな入所者は無い。高齢化は進み、平均年齢は七十二歳を超える。

 九六年には、患者の強制隔離を定め、根強い偏見を生んだ「らい予防法」が廃止された。

 「予防法は私たちと家族、肉親を引き裂いた。待ち望んだ廃止だが、ようやく人並みになっただけ。隔絶された社会との溝がすぐ埋まるわけではない。差別と偏見の根は深いんです」

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地図
 園内では全室に流れる放送が毎週一度、岡山市に買い物や遊びに出る園のバスのお知らせを何度も繰り返していた。

 外出希望者が少ないからだという。数年前まで、このバスの予約はくじ引きで決まるほどの人気ぶりだった。橋が架かるまでは、園の船で虫明まで渡り、そこからバスが出た。

 「せっかく橋ができ、予防法も無くなったというのに、その時はもう外に出る元気も失せた。あまりにも遅すぎた。笑えん話ですよ」と宇佐美さんはつぶやいた。

 橋のおかげと言えば、言えるのだろうか。戦時中、愛生園に収容された豊田一夫さん(71)はここ数年の訪問者の多さに驚く。予防法廃止後は一層目立つ。

 花火大会が目玉の昨年の夏祭りはそれを象徴していた。三百台近い車が橋を渡り、三千五百人が来島。こんなにぎわいは初めてだった。

 さまざまな宗教の勧誘、ボランティア、交流の申し込み―と訪問者はひきもきらない。

 園で亡くなった患者が眠る納骨堂の世話をする豊田さんは、死亡しても連絡がとれなかったり、遺骨の引き取りを拒否する家族を見続けてきた。引き取っても帰りの船から、海に投げ捨てられたことさえある。

 それがこのにぎわい。「若い世代にはハンセン病の知識の無い者もいる。昔なら考えられないこと」と戸惑う。

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 宇佐美さんは、患者を強制隔離したハンセン病の歴史を後世に伝えようと、園に残るありとあらゆる資料を収集している。

 古い写真や医療器具、薬、逃亡を防ぐため現金の代わりに持たされた園内通用券など既に五千点を超えた。

 「われわれが死ねば、この病気の歴史は忘れられるのでは」。そんな思いが宇佐美さんを駆り立てている。


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