「軍艦島」の歴史今は遠く


往時をしのぶ廃屋群

 巨大な煙突やそそり立つ建物群から、「軍艦島」と呼ばれる工場 の島が、瀬戸内海にはいくつもあった。愛媛県宮窪町の四阪島も、 そのひとつである。

 新居浜市から約三十分で、高速艇は美濃島に着いた。坂道を上る と、住友の銅精錬所のかつての社宅が並ぶ。雨戸を締め切った長屋 の庭には、タンポポが群れて咲いていた。

 江戸時代から別子銅山で採鉱していた住友家は一八八八(明治二 十一)年、新居浜に精錬所をつくったが、煙害が起きる。そこで新 居浜沖の四つの無人島を買い、一九〇五年に精錬所の操業を始め た。この四島を合わせて四阪島と呼んだ。

 島に移っても、ドイツ式の中和工場などができる一九三九年まで は、社運をかけた煙害対策に追われる。四阪島は、瀬戸内海の公害 のはしりでもあった。

 最盛期の昭和三十年代、島には約五千人が住んでいた。市場や劇 場、病院、小・中学校もそろっていた。しかし新工場の完成による 合理化などで、七七年からわずかな従業員が新居浜から工場のある 家ノ島へ通う。ほとんどの施設は今や「産業遺跡」となった。

 坂の途中に廃校になった小・中学校があった。所々、屋根が抜け た教室には落書きの跡が残る黒板がかけてあった。四阪銀座と呼ば れた商店街は、空き地に雑草がはびこっていた。

 (写真部・野地俊治)



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