
| '99しまなみ大学シンポ |
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歴史と風土が紡いだ営み
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'99瀬戸内しまなみ大学シンポジウム「海道の祭り―交流・個性・自然との共生」(瀬戸内しまなみ海道周辺地域振興協議会、愛媛新聞社、中国新聞社など主催)が十一日、尾道市東御所町のテアトロシェルネ(しまなみ交流館)で開かれた。瀬戸内をキャンパスにした生涯学習講座の一環。広島、愛媛両県を中心に約五百三十人が参加し、祭りの歴史や伝統芸能に対する理解を深めた。同志社大の森浩一名誉教授、桃山学院大の沖浦和光名誉教授、広島女学院大の藤井昭教授の三氏がリレー講演やシンポで、それぞれの専門研究分野に基づいて、祭りや神仏、民俗芸能などに関して解説。祭りの伝承・発展方法なども話し合った。舞台では、尾道市の吉和太鼓踊保存会と今治市の阿方獅子舞保存会が、それぞれ地域に伝わる太鼓踊りと獅子舞「継ぎ獅子」を披露。しまなみ海道沿線二十市町村の主な祭りを、スライドで紹介するプログラムも組まれた。 |
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(考古学)。1997年のしまなみシンポ「瀬戸内の海人たち」などで講演。著書は「考古学と古代日本」など。1928年生まれ。
(比較文化論、社会思想史)。著書は「瀬戸内の民俗誌」「日本文化の源流を探る」「島に生きる」など。1927年生まれ。
(日本文化史、民俗学)。著書は「日本の民俗 広島」「宮座と名の研究」「芸備地方のまつり」など。1934年生まれ。
【メ モ】 <大山祇神社>瀬戸内しまなみ海道沿線の島々で最も広い大三島のほぼ中央部にあり、祭神の大山積神は人々や水軍などの信仰を集めてきた。鉱山や林業などの山の神や農業神も兼ね、分社は全国に一万三百余ある。鎧(よろい)や刀剣などの武具類では全国の国宝、重要文化財の八割を収蔵している。 <吉和太鼓踊り>二年に一回、尾道市東久保町の浄土寺に奉納される。踊りながら、境内まで石段を後ろ向きに上るのが特徴。一三三六(建武三)年、足利尊氏が、従軍した吉和の人たちに恩賞を与え、これに感激した人々が尊氏の戦勝を祝ったのが起源とされる。 <阿方の継ぎ獅子>伊勢神宮の神楽の流れをくむと伝えられる。約二百年前,阿方清水天満宮の春の大祭で,みこしの先導役として登場。空に向かって縦に組んでいく姿には「五穀豊穣(ほうじょう)を祈り,天にいる神に近付きたい」という願いが込められているとされる. |
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海渡ってきた神と文化 森 氏にぎわう市格好の舞台 藤 井氏 時流取り入れて発展を 沖 浦氏
一方で、祭りというと、笛や太鼓のにぎやかな祭礼を思い浮かべるが、伊勢神宮(三重県伊勢市)には派手さがまったくない祭りもある。神宮では一日二回、神様にご飯をささげるが、これも祭りだ。祭りを語るには、日本文化にどういう特徴があるのかを見なければいけない。 沖浦氏 芸予諸島は昔から畿内と四国、九州を結ぶ重要な海域。古代の越智水軍、中世の河野水軍、さらに戦国動乱期の村上水軍は、いずれもこれらの島々を根拠地としてきた。しまなみ海道は、まさしく「水軍海道」だった。 しまなみ海道を歩くと、小祠(しょうし)を含めて多くの神社があるが、その中でも「オオヤマツミノカミ」を祭った神社が一番多い。 大山祇神社(愛媛県越智郡大三島町)に鎮座している「オオヤマツミノカミ」は、古事記によると、もともと南九州の薩摩半島にいたとされるが、この神を信仰していた南方系の「隼人(はやと)」が、黒潮に乗って瀬戸内海に来たためと思われる。戦国時代に芸予の海に君臨した村上水軍も、この民族とつながっている。 森氏 大山祇神社の信仰と、大三島に住んでいる人々は分けて考えないといけない。中国の南方、江南地方の人々のことを越人(えつじん)と呼ぶ。大三島周辺の海域を支配していた豪族の越智氏は、江南地方とかかわりが深い。奈良時代の初め、漢字一字の地名を二字にすることが流行し、名前も「越」と書いていたのを、「智」を付けて「越智」と書くようになった。 一方、伊予の国(現在の愛媛県)の風土記に、大三島がもともとは摂津の国の三島(現在の大阪府高槻市周辺)のことだとある。摂津の三島で祭られている神様は、百済から渡ってきた航海の神。大三島の文化的基盤は、中国の江南地方や南方とつながりがあるけれども、大三島の伝承に関しては摂津、百済ともつながりがある。 藤井氏 尾道から北へ六十キロほどの広島県双三郡や比婆郡、神石郡では、今でも大田植えが行われている。神仏混合で、神主さんとお坊さんが壇上で祝詞を読むが、神主さんは「オオヤマツミノカミ」を祭っている。 備後の神社の神主さんは、「オオヤマツミノカミ」を豊作祈願のために祭る。瀬戸内海では海の神として、中国山地に入れば農業神としての面があるようだ。 沖浦氏 大三島の大山祇神社には、神木とされているクスノキの巨木が目立つ。この地域の人々は、古代からクスノキを用材にした造船術に優れていた。古代に、この海域を支配した越智氏が大山祇神社の神職を継ぎ、そこから分かれた河野氏が芸予諸島の政治的支配権を受け継いだ。 藤井氏 祭礼は、神とその地域の当事者だけの関係を通り越して、さらに第三者がやってくる。そこに祭りがあり、民俗芸能がある。同時に市(いち)も立つ。 宮島(広島県佐伯郡)の場合は季節ごとに市が立っていた。現在は管絃祭の時に立つだけで、かつてのにぎわいはないが、船でお参りする人たちが、町のにぎわいを見て楽しんでいるようだ。 内陸部に入っても、毛利元就の城があった吉田(広島県高田郡)辺りでも市立て祭りがあり、子ども歌舞伎が出てにぎわっている。広島県北部の千代田(山県郡)でも祭りの時には、市立てがあって、浄瑠璃や歌舞伎などの芸人がやってきたり、地元の人が芸を奉納したり、農機具を売るということが戦前、戦中まではあった。 森氏 市は、戦後の古代史の中ではあまり評価されてこなかったが、実は大変面白い。もともと神社にお供えをして、残りを、祭りの最後の日に売り買いするというのが始まりだった。朝鮮半島でも同じことが言えるようだ。 市を見ていると、かまを買いに来る人がいる。かまは別に市でなくても、いつでもどこでも買えるように思うが、市で買ったものには、後ろに特定の神様、特定の仏様がついているという、不思議な思いがあるのではないか。 沖浦氏 大山祇神社の大祭には、芸予諸島のあちこちから船を仕立てて集まってくる。すごい数の出店などでにぎわう。藩の資料が残っているが、出店から取り立てた税金が、藩財政の重要な部分を占めていた。 藤井氏 海は人間に降りかかる災厄を除く、静かに抱きかかえる場所。海は人間を大きく包む。瀬戸内海の祭りは海とのかかわりが強い。ただ、古さをとどめていると思っても、内容は変化している。現状を固定化して守っていくのか、本質を変えない程度に内容を改めていくべきか、祭り文化の今後の伝承方法についての考えを聞かせてもらいたい。 森氏 京都の祇園祭でも、ピラミッドとラクダを描いた織物を使う。江戸時代の物だが、伝統的だと思われている祇園祭でも、そういうことがある。 祭りは伝統にのっとって、きっちりと守っていくことも重要だが、新しい物をどんどん取り込んでいけばいいのではないか。今後、そういう努力もしていかなければ、いつかは廃れていってしまうだろう。 沖浦氏 昔からいろんな形をとって、祭りで村を活性化させ、共同体の結束を固めてきた。古い形態も大切だが、新しい時流も取り入れ、古い祭りをみんなで保存、発展させていってもらいたい。 藤井氏 人々の結束の象徴として祭りを続けていくからには、世論の動向から離れての保存はできない。芸能として残したいことは、世論の中で形成されていくのではないか。 生産技術も変わってきており、古い技術を前提とする芸能の保存は難しい。少しも形を変えずに残すことは、住民の支持を失う恐れがある。演じる人も、見る人も一体となって、できるだけ古いところで保存できればいいと思う。 (この記事はリレー講演、提言文書、シンポジウムの発言を基に構成しました。) |
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