'99.3.29    

  ’99しまなみシンポ

しまなみリレーセッション
基調講演

役割持つ島々に貴重な歴史

日本文化にとっての海―内海と外海

 若いころは「島国」を否定的に見ていた。見方が変わったのは、北海道の離島・礼文島で出土したシカ角の刀の装具を見た時だった。五、六世紀の鞘(さや)の一部で、直弧文を刻んだ希少品だった。八丈島の縄文時代の墓からは見事な装身具が出土した。関東平野との交流をうかがわせ、後に中国・遼東半島に類似品があることが分かった。

 これらは、海路を利用し、目的を持って移動する人々がいたことを意味する。島はそれぞれ特徴をもっており、古事記や日本書紀にない歴史がある。

 平安時代の「作庭記」という書物に「庭を築くときは大海の様を念頭に置くのが基準」とある。庭園は島の縮図であり、島を山島、野島、森島、磯島など形態ごとに分類している。海を知らない都人(みやこびと)でも島の特徴をよくとらえていた。これは非常に重要なことで、瀬戸内海でもそうだが、島にはそれぞれ個性、役割がある。

 例えば、弓削島は平安、鎌倉期の古文書にも頻出する。塩荘園として京都の東寺に塩を納めていた。製塩遺跡のある島は多いのに、なぜか納入は弓削だけだ。

 奈良時代は農民重視の律令制で、水田を分け与えるために戸籍を作成した。田畑のない漁民は個人としては管理されず、集団で朝廷にあいさつ料として海産物などの贄(にえ)を納めていた。周防大島など一部を除き、戸籍で掌握される漁民はまれだった。

 しかし、周防大島に前方後円墳はないが、山口県平生島には広島、山口で最大の前方後円墳がある。早くから個人が政府に掌握されていた島には、大勢力が生まれなかった。

 平安期の都人には、庭に島を造るだけでなく、大阪湾から海水を運搬し、庭で実際に塩作りをした者もいた。内陸の平安京や長岡京から製塩痕のある製塩土器も出土している。都人の海へのあこがれの表われだ。

 日本神話でも、国土は海から誕生している。男女の神が海から矛を引き揚げると、切っ先から塩が滴り落ち、島ができた。塩が固まり島となる描写は多分、瀬戸内の製塩風景をイメージしているのだろう。

 島や海に対する見方が変わったとき、本当の歴史が見えてくる。都中心、農民中心に語られてきた概説書から離れ、身近なところから歴史を学んでほしい。



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