2001/2/9
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| 毛井 誠(阿賀) (1) |
| もうい・まこと 1933年2月10日、呉市生まれ。呉市工中〜阿賀高〜駒大。56年からリッカーミシンで3年間プレー。59年からは同社女子ソフトボール部の監督に就任。81年に呉市に戻り、少年野球チームのコーチを務める。右投げ右打ち。呉市在住。 |
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| 「甲子園はその瞬間、瞬間が楽しくて仕方なかった」と、当時を振り返る毛井さん |
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| 四番打者としてチームをベスト8に導いた毛井(右)=本人提供 |
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「右打ち名人」練習の虫
終戦後間もない一九五〇年、阿賀(現呉工)にとっては忘れ得ぬ年となった。広島勢としては十三年ぶりに夏の甲子園に出場し、八強入りした。創部わずか四年。特出したスター選手のいない「のびのび集団」を引っ張ったのが、「右打ち名人」の四番打者、毛井だった。
2回戦の小倉(福岡)戦。二年前の覇者で前年も八強とあって、優勝候補の筆頭だった。1―2の四回二死一塁、まずは右越えの大三塁打。走者の本塁憤死で同点こそ逸したが、六回にも同点の布石となる適時打を放つなど4打数3安打。結局、チームは6―4で小倉を破る大金星を挙げた。
こんな逸話もある。春に練習試合で西条(愛媛)と対戦し、超高校級投手、藤田元司(元巨人)から3三塁打。四打席目は敬遠された。「右への三塁打か三振」というのが、毛井の打撃だった。
「幼少のころから野山を駆け回っていたせいか、足腰だけは頑丈だった」。それ故の悩みもあった。腰の回転は分厚い筋肉のため遅くなり、内角に速球には差し込まれる。しかし、外角球を捕らえると、右翼の頭上を越えていく。
右投手は、カーブを決め球に使うのが主流の時代。当時としては画期的な先端が重く、グリップが細いバットを使用。1メートル弱のバットをいっぱいに持ち、外に逃げる球を遠心力を利用して一気に振り抜く。外角球だけに自らの活路を見いだした。
四九年、阿賀の野球部に入部。「軍隊帰りの上級生もおり、殴るけるは当たり前。でも初めて楽しめるものに出会った。毎日が楽しくて仕方なかった」
野球にのめり込んだ少年は、バットを片時も離さなかった。授業中もバットを握り、夜は自宅で五百回の素振り。就寝前に毎日、ワックスの代わりに、脂を含んだ牛の骨を使いバットを手入れした。
時には広島県安芸郡江田島町の進駐軍に出向き、練習試合の相手も務めた。「野球ができて、兵隊さんは喜んでくれてね。飯を食わせてくれるわ、野球の用具をくれるわ」。食料難と用具不足に嘆いていた他校の選手が聞けば、うらやむような話である。
「甲子園は遠い外国のようだったが、重圧なんて全くなかった。打席に入るのが待ち遠しかった」。大好きな野球を心行くまでおう歌した五十年前を、しみじみと振り返った。
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