2001/2/10
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| 恵川 康太郎(三原) (2) |
| えがわ・こうたろう 1936年4月22日、三原市生まれ。広大付三原中〜三原高。55年に内野手として広島に入団。183試合に出場し、通算打率2割4分9厘。現在は三原市でタクシー運転手。右投げ右打ち。三原市在住。 |
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| 甲子園メンバーの五藤さん(右)と出場当時を懐かしむ恵川さん |
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| 夏の甲子園開会式で入場行進する恵川(中央)=五藤康之さん提供 |
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寡黙なプレーでけん引
一九五四年、城下町三原の野球熱が一気に高まった。白地のユニホームに、えんじの文字。一見、東京六大学野球の早大をほうふつとさせた三原ナインが、夏の甲子園ベスト8。その原動力となった四番打者で主将の恵川は、寡黙な不言実行のバットマンだった。
今でも「忘れられない」と言うのが、西中国大会1回戦の防府戦。九回最後の攻撃を迎え、5―6と1点リードされていた。二死一、三塁で打者のゴロは遊撃へ。だれもがゲームセットかと思った瞬間、相手がまさかの悪送球。同点でなおも走者を三塁に置き、打席が回ってきた。ここでしぶとく二塁左を抜き、劇的なサヨナラ勝ちを収めた。
決勝の広陵戦でも見せた。1点を追う三回、逆転に成功し、勝負を決める大アーチを左翼席に運んだ。ここ一番での勝負強さは際立っていた。チームメートの信頼も、絶大なるものだった。「甲子園出場は恵川さんあってのもの。黙々とプレーする姿で、ぼくらを引っ張っていた」と、一番中堅で一年後輩の五藤康之(63)=三原市在住=は話す。
当時の三原には、中田昌信部長と寺田武監督(ともに故人)の名物指揮官がいた。二人が掲げていたのが「近代野球」。投球動作からの球種の分析、ブロックサインの導入など、データを基にした「頭を使った野球」を実践していた。
主将は率先して「頭を使った打撃」の習得に励んだ。それは状況に応じた打撃だった。練習法は校舎の塀の前での地味な素振り。最初は塀から1メートルの所に立ち、回数が増える度に距離を縮めていく。最後には50センチの距離でフルスイングを繰り返した。
「打つポイントを最短距離にするのが目的。自然とわきが締まるし、どんな球種、コースにも対応できるようになった」。まさに指揮官が望んだ打者に成長した。
「野球する環境に恵まれていた」と言う。当時の木村時太郎校長は大の野球好き。グラウンドも優先的に野球部に使用権を認め、修学旅行も免除したほどだ。市民の関心も高く、用具や遠征費などを援助。西中国大会の会場だった広島市から帰郷した際、三原駅には約一万人の市民が駆け付けたほどだ。
卒業後は広島カープに入団。同期には藤井弘、木下強三らがいた。しかし、四年で引退。野球生活に終止符を打ち、故郷に戻った。現在でも白球を追い続けた高校時代の日々を思い起こすと言う。「決してぼくのワンマンチームじゃない。ナイン、学校、街…すべてが一つになったのが、五四年だった」
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