中国新聞
2001/2/11
 山本 一義(広島商)  (3) 
 やまもと・かずよし 1938年7月22日、広島市南区生まれ。翠町中〜広島商高〜法大。広島での実働15年間で1594試合出場、通算2割7分、171本塁打。現役引退後は広島、近鉄、南海のコーチ、ロッテの監督を務める。現在は野球評論家。左投げ左打ち。外野手。広島市中区在住。
「母校愛が輝いていた時代だった」と広島商時代を思い起こす山本さん  
 
卓越した打撃センスで一年から新制広島商を引っ張った山本  
古豪の伝統を受け継ぐ

 一九四九年、高校再編成により観音に統合された広島商。同窓生らの根強い復校運動もあり、五四年九月、基町、観音の商業科一年生を集め復活した。観音から編入した生徒の中に、後に超高校級と呼ばれるまでになる、戦後を代表するスラッガーがいた。

 超高校級たるゆえんは、三年の夏の県大会にあった。対戦投手は四番・山本との勝負を避け、2回戦から準々決勝までの13打席で、実に10敬遠。苦肉の策として一番に起用された準決勝では、第1打席で初球を右翼席に大アーチ。こんな離れわざをやってのけた。

 打つために、勝つために。理想の打撃を追究してやまなかった。ベーブルースの伝記からヒントを得た、自らの信念がこれ。「上手、下手の差はどれだけ努力したか、どれだけ考えたかの差。才能は二の次」

 朝五時に起床し、素振り。授業の合間を縫って素振り。練習後、一、二時間の素振り。その数一日五百本以上にも及んだ。さらに、二死二塁の場面を想定した打撃練習など、当時としては画期的なイメージトレーニングにも独自に取り組んでいた。卓越したセンスに無類の勝負強さを備えた山本は五六年、春夏連続甲子園を果たした。

 転機は二年の五五年にあった。新制広島商は一年から主将に任命された山本のほか、基町からきたエース上土井勝利(元広島)ら好素材がずらり。夏の県予選では準優勝。西中国大会1回戦で岩国工にサヨナラ負けし、甲子園はならなかったが、一、二年生だけの快進撃に賛辞はやまなかった。山本も「晴れ晴れとした」満足感に浸っていた。

 だが、直後にもらったOBからの言葉は痛烈だった。「広商は負けてはならない」。戦前に全国制覇四度の古豪に、敗戦は許されなかった。主将として何をすべきか。まず、広島商の歴史を文献などで学んだ。「われわれには伝統を受け継ぐ使命がある」。チーム、そして自己を意識改革した。

 甲子園では1勝も挙げられなかったが、「悔いはない」と断言する。「翌年(57年)、後輩が全国優勝を果たした。甲子園経験者が勝つために何をすべきか、を考えながら練習した結果。伝統は進化して引き継がれることが証明できた」

 六一年、広島に入団。以来、現在まで野球中心の日々は変わらない。「積極的に努力し、考える。高校の三年間が野球人生の基礎を作ってくれた」


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