中国新聞
2001/2/12
 佐々木 明三(広島商)  (4) 
 ささき・めいそう 1939年4月29日、広島市西区生まれ。観音中〜広島商高〜神奈川大。63年に日立製作所に入社し、五年間プレー。2年前に退社し、現在は東京都品川区の総合商社で電子部品の営業担当。右投げ右打ち。内野手。東京都練馬区在住。
「市内パレードで初めて優勝を実感した」と、当時の歓迎ぶりを語る佐々木さん  
 
一番打者として広島商27年ぶりの優勝に貢献した佐々木(中央)  
精神力で原爆症克服

 一九五七年八月二十二日午後二時、広島駅に急行「安芸」が到着した。ヒーローたちを一目見ようと、一万人以上の広島市民が駆け付けた。仁保町の校舎に戻る道中でも、沿道から大歓声が飛び交った。夏の甲子園で二十七年ぶり四度目の優勝を飾った広島商は、原爆の廃虚から復興を目指す市民に大きな希望を与えた。原爆で心と体に大きな傷を負った一番打者佐々木も、歓喜の輪にいた。

 俊足巧打で、大舞台でも大車輪の活躍だった。三九度の発熱を押して出場した上田松尾(長野)との3回戦では、1安打1盗塁。法政二(神奈川)との決勝は三回、先制となる適時三塁打を右に運んだ。甲子園4試合で打率3割8分4厘。ここ一番での勝負強さは光った。

 山本一義(元広島)らを擁した前年に比べ、「力の差は歴然としていた」(佐々木)。五六年秋の広島県大会準決勝で広陵に敗れ、選抜出場はならなかった。「正月休み返上で猛練習に励んだ。おかげで選手同士に信頼感が生まれた」。まさにチームワークで勝ち取った優勝だった。

 「福山駅や竹原駅でも、たくさんの人がホームで手を振っていた。広島駅では普通の改札口から出られないほどだった。あの光景は一生忘れない」

 被爆体験も、一生忘れられない出来事である。「本当は話したくないんだが…」と言いながら、重い口を開いた。

 六歳だった四五年八月六日の午前八時十五分。西区内の自宅前で、ふと頭上を見上げた瞬間だった。「光って何も見えなくなり、爆風で砂煙が上がった。気が付くと周りに家はなく、遠くに炎が燃え上がっているのだけが目に入った」

 顔面、右腕、右脚にやけどを負った。腕、脚の皮膚はただれ、関節の曲げ伸ばしすらできないほどの重傷だった。数日後、父親の実家のあった広島県山県郡豊平町に移った。二年間はまともに歩けなかった。ついたままの皮膚を切り取り、関節に自由が戻ったのは被災から三年後だった。

 観音中に入学した五二年から野球を始めた。「夏場になると食欲が落ち、バットも振れない状態になる日もあった」。後遺症に悩まされた。「二年間も歩けなかったのに、不思議と足だけは速く、陸上部員にも負けないほどだった」。俊足を武器にめきめきと頭角を現し、ついには屈指のトップバッターに上り詰めた。

 現在でも右首筋に原爆症の跡が残る。強じんな精神力で原爆症を克服し、目の前の敵、見えない敵…すべてに打ち勝ってみせた当時の雄姿は、多くの広島市民を勇気づけた。


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