2001/2/14
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| 友歳 克彦(柳井) (5) |
| ともとし・かつひこ 1940年4月7日、山口県大畠町生まれ。鳴門中(現大畠中)〜柳井高〜法大。63年に日本石油に入社し、2年間プレー。65年から3年間コーチを務める。昨年同社を定年退職。右投げ右打ち。投手。広島市西区在住。 |
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| 「動揺も緊張もなかった。無意識のうちに試合は終わっていた」と、決勝戦の写真を懐かしそうに眺める友歳さん |
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| 優勝投手となり、インタビューを受ける友歳 |
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抜群の制球 下馬評覆す
夏の選手権八十二回の歴史の中で、山口勢が頂点に立ったのは、後にも先にも一九五八年の柳井だけである。立役者は「魔球」を武器に、6試合を一人で投げ抜いた技巧派右腕の友歳だ。
決勝の相手は徳島商。準々決勝で魚津(富山)・村椿輝雄と計27イニングの壮絶な投げ合いを演じた板東英二(元中日)がエースだ。ファン、報道陣の予想は、ほとんどが徳島商有利。それを覆す戦いぶりだった。
疲れの見える板東に、14安打を浴びせて7得点。友歳は球威こそないものの、抜群の制球力で無四球の4安打完封。終わってみれば、柳井の圧勝劇だった。
「うれしいというより、やっと終わったというのが素直な気持ちだった。疲れはピークで、早く終わらせたい一心で四球だけ注意していた」。言い換えれば、無欲の栄冠であった。
技巧派も入学当時は、直球一本やりの本格派だった。しかし、二年生になって右肩を故障。横手、下手と肩の痛みが生じない投げ方を模索しながら、投球を続けていた。ここで、「魔球」を生み出すこととなる。
三年の山口県大会直前、広陵との練習試合。「何気なくボールの縫い目に沿って握り、指先で切る感じで投げてみた」。すると、打ちごろの球が行くが、打者はすべて凡打。自分でも驚いて縫い目にかける指を二本にしたり、四本にしたり。いろいろ試すと、球道は七変化。沈んだり、シュート回転したり…。直球が打者の手元で、微妙に変化することが分かった。
今では米大リーグ・ダイヤモンドバックスの左腕ランディー・ジョンソンも多用する球種。「自分でもどう変化するか、予測できなかった。当時は七色の変化球と騒がれたけど、実は普通の直球なんですけどね」
この魔球には、伏線がある。実は五歳の時、精米器に右手をはさみ、人差し指と中指の腱(けん)と関節を切断。その影響で、二本の指は中側にやや傾いたままになっていた。「気付くまでは直球がどうしてもシュート回転するので、ずっと悩んでいた」と言うから、まさにけがの功名だった。
「打者のしんを外す投球に、快感を覚えるようになった。球威がないから、対戦相手はいつでも打てると思っていたでしょうね」。当時、対戦した打者は、さぞ歯がゆい思いをしたであろう。二十七歳で野球と離れたが、高校時代に得た教訓を今でも胸に刻む。「マイナスは必ずプラスに変えることができる」
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