2001/2/15
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| 池永 正明(下関商) (6) |
| いけなが・まさあき 1946年8月18日、山口県豊北町出身。神玉中〜下関商高。3年の64年は選抜2回戦敗退、夏は県大会で敗れた。プロ6年間で238試合に登板。通算103勝65敗、防御率2・36。793奪三振。投手。右投げ右打ち。福岡市在住。 |
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| 「きつく、逃げ出したいこともあったが、野球しかなかった高校3年間だった」と下関商時代を思い起こす池永さん |
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| 甲子園で旋風を巻き起こした池永の豪快な投球フォーム |
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春夏連覇 惜しくも逃す
これほど高校野球ファンを熱狂させた球児が、いただろうか。むちを打つような右腕の振りから繰り出される剛速球。一九六三年、春は優勝、夏は準優勝。甲子園を興奮のるつぼに変え、吹き荒れた「下商旋風」の主役。スポットライトを浴び続けた高校時代を簡潔だが、重みのある言葉で振り返った。「無我夢中で駆け抜けただけ」
延長十六回あり、土壇場での逆転劇あり。激闘の選抜5試合を一人で投げ抜き、優勝投手になった。夏の県大会も完全試合を含み、5試合すべて完封勝ち。春夏連覇の期待は高まるばかりだった。
2回戦の松商学園(長野)で、不運に見舞われた。五回、ヒットで出塁し、捕逸で一挙に三塁を狙った際、左肩を痛めた。「痛みがひどく、動かせない状態」で3回戦はマウンドを譲った。準々決勝から再び登板したが、左手を抱えるようなフォームで速球の威力は激減。悲壮感が漂っていた。
剛腕は、それでも投げ続けた。決勝まで勝ち上がったが、女神はほほ笑まなかった。明星(大阪)に一回、守備の乱れから2点を奪われた。以後は無失点に抑えたが、1―2で力尽きた。甲子園11試合目、初めて喫した黒星だった。「夢中で何も分からなかった。終わった、という感じだった」
野球を始めたのは神玉中(現豊北二中)から。「50メートル離れてキャッチボールをやらすと、一人だけ球の伸びが違う。まるで三段ロケットのようだった」。当時の監督、内山寿雄さん(64)=現豊浦高講師=は、一目見て仰天した。
ずば抜けた運動能力に、他部からも依頼が続出。陸上では三種競技(走り高跳び、砲丸投げ、八十メートル障害)で山口県中学記録を樹立、全国大会でも3位に入った。「地元国体(63年)に東京五輪(64年)もある。高校で野球をやらすか、陸上か。真剣に悩んだ」と内山さんは明かす。
六五年、西鉄に入団。いきなり20勝を挙げ、新人王に。六七年には23勝で最多勝を獲得したが、七〇年に「黒い霧事件」で永久追放となった。まさに、「駆け抜けた」野球人生だった。
引退後、福岡市内でスタンドを経営し、二十八年になる。今でも、母校のことは気に掛かる。旋風以後三度しか甲子園の土を踏んでいないチームに、「一度崩れた伝統を築くのは容易ではない。でも、栄光の時代は必ずまた訪れるはず」とエールを送る。
現在、恩師の内山さんらを中心に、球界への復帰運動が起こっている。「感謝、感激。そのひとことに尽きます」。静かに口を開いた表情には、今なお衰えない野球への情熱が垣間見えた。
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