2001/2/17
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| 亀井 進(早鞆) (8) |
| かめい・すすむ 1946年10月2日、下関市生まれ。彦島中〜名陵中〜早鞆高。65年に大洋(現横浜)に入団。70年に引退後も横浜一筋。マネジャーなどを経て、80年からスカウトに。96年に育成部長となり、現在は業務部長。右投げ右打ち、投手。川崎市在住。 |
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| 「野球と学業を両立した3年間は満足感があった」と、早鞆高時代を振り返る亀井さん |
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| ライバル下関商を下し、夏の甲子園に出場。準優勝の原動力となった亀井の投球 |
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好敵手打倒へ制球磨く
一九六三年、胸に「S」のユニホームを着た下関商が旋風を巻き起こした。翌年には「H」が快進撃を演じた。同じ長門地区の新星早鞆である。六四年の夏の甲子園に、初出場ながら準優勝。その屋台骨を支えたのが、「精密機械」とも言われた技巧派エースの亀井だ。
名陵中時代から好投手と騒がれ、山口県のタイトルをほぼ独占した。しかし、一人の投手を見た瞬間、最高のライバルになると直感した。池永正明(元西鉄)である。池永が下関商に進学すると聞きつけると、迷うことなく同地区の早鞆を選んだ。いわば宣戦布告である。
下関商は六三年の春優勝、夏準優勝。「あいつに勝たないと、甲子園はない」。力で押し切る池永に対し、亀井は制球力で勝負。「剛」と「柔」でしのぎを削った。
二人が最上級生となったシーズン。六三年秋季大会は0―1で、六四年春季大会は0―3。なかなか壁は破れなかった。
「三度目の正直」が訪れた。夏の甲子園をかけた県大会長門地区予選2回戦。亀井の投球術はさえた。外角低めを主体に、直球、カーブ、高速スライダーで下関商打線のタイミングをことごとく外した。そして八回、打線が待望の先取点を奪い、1―0。最後の最後で亀井の執念が実った。
チーム、そして亀井は宿敵を破り、勢いづいた。県大会、西中国大会を制し、甲子園へ。大舞台でも全くひるまなかった。岐阜商との準決勝では完封勝利。決勝の高知戦は一回、守備の乱れから先取点を奪われ、そのまま0―2で頂点には届かなかった。しかし、5試合を一人で投げ抜いたエースに、称賛の言葉は絶えなかった。
「実は決勝の直前にあんぱんを三つ食べたせいか、どうも胸焼けがして。おかしいなと思っているうちに、点を奪われてしまった…」と裏話を明かす。栄冠にはあと一歩届かなかったが、「早鞆の名を全国にPRできた満足感の方が強かった」。
六五年、亀井と池永はプロに進んだが、対戦することなく、ともに七〇年にユニホームを脱いだ。昨年五月、両者の三十六年ぶりの対決が実現した。下関商―早鞆のOB戦が、初めて行われた。亀井は7回、池永は3回を投げた。
ともに五十路となり、白髪がちらつき始めた。青春時代、火花を散らしたライバルは試合後の食事会で初めて笑顔で対面し、思い出話に花を咲かせながら白球人生を語り合った。
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