中国新聞
2001/2/18
 浅野 啓司(福山電波工)  (9) 
 あさの・けいし 1949年2月22日、福山市生まれ。鷹取中〜福山電波工高。67年にサンケイへ入団し、77年には巨人へ移籍。実働18年間で542試合、86勝116敗10セーブ。現在は日本ハムの二軍投手コーチを務める。右投げ右打ち。投手。東京都世田谷区在住。
日本ハムの二軍投手コーチとして、2年目の正田(左)ら若手育成に情熱を注ぐ浅野さん  
 
創部3年目ながら広島県大会で準優勝した福山電波工のエース浅野  
あと一歩で甲子園逃す

 一九六五年、すい星のごとく現れた備後の新興勢力が、旋風を巻き起こした。強豪に小細工なしの真っ向勝負を挑んだ二年生右腕浅野が、注目を一身に集めた。

 創部わずか三年目の福山電波工(現近大福山)は、レギュラーに一、二年生が五人入る若いチーム。「打倒広島商・広陵」を掲げ、県大会で快進撃を続けた。浅野の投球もさえた。速球にシュート、さらに低めに球を集める抜群の制球力。2回戦で北川工(現府中東)を1―0、準々決勝では広島商を2―1で退け、決勝まで勝ち上がった。

 相手は広陵。ここまで5試合、50イニングで失点1。力投を続けたエースも、ついに力尽きた。序盤に4点を奪われるなど計5失点。あと一歩のところで甲子園を逃した。「決勝まで進めた満足感にあふれていた。三年生になる来年は、必ず甲子園に行けると思った」

 確かな自信は、もろくも崩れた。六六年の県大会2回戦、相手は同じ備後地区の松永。「練習試合で点を取られた記憶がなく、攻撃でも常に二けた得点を記録していた」。だが、気の緩みからか前半、連打から大量失点するなど1―6の思わぬ大敗。備後の雄は、ついに甲子園の土を踏めなかった。

 鷹取中三年の時、当初は尾道商への進学を考えていた。近藤道稔監督(故人)から誘いを受けた。「ほかにも素晴らしい選手を入れる。みんなで甲子園に行こう」。口説き文句に、未知の魅力と無限の可能性を感じた。少年は迷った末、決心した。

 とは言え、学校はまだ無名の存在。「一年生のころは、練習相手を探すのにもひと苦労した」ほどだった。次第に練習試合も県内のみならず、全国の強豪から依頼が相次いだ。学校側にも甲子園出場の機運が一気に高まった。「体育の柔道の時間には、担当教諭から投球に役立つからと、背負い投げの練習ばかりやらせてもらった」

 三年の時、別の選手を見に来ていたサンケイ(現ヤクルト)のスカウトの目に留まり、プロの道へ。以来十八年間、第一線で活躍した。

 日本ハムの二軍投手コーチを務める現在でも毎年、故郷に里帰りし、当時の仲間と宴で盛り上がるという。「ここで野球をし、いい仲間と出会えたので今がある。福山電波工に進んで、本当によかった」。果たせなかった甲子園出場の悔しさはない。野球人としての基礎を築いてくれた母校に、感謝しきりだ。


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