2001/2/19
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| 宇根 洋介(広陵) (10) |
| うね・ようすけ 1950年7月29日、呉市生まれ。阿賀中〜広陵高〜近大。73年に電電中国(現NTT西日本中国クラブ)に入社。兼任コーチを含め、34歳までプレー。都市対抗にも3度出場した。現在は同社広島支店の営業担当。左投げ左打ち。投手。呉市在住。 |
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| 「身長が低い分、人の倍は練習した」と、高校時代を振り返る宇根さん |
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| けがをものともしない精神力で快投を見せ、「小さな大投手」と呼ばれた宇根 |
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負けん気で甲子園8勝
一九六七年の夏の甲子園で、二年生ながら四十年ぶりの準優勝に導いた。負傷を押し、5試合を投げ抜いた168センチの左腕。宇根に与えられた称号は、「小さな大投手」だった。
当時、広島商には山本和行(元阪神)、尾道商に大田垣耕造(前全日本監督)、福山電波工(現近大福山)に村田兆司(元ロッテ)と好投手がそろっていた。いずれも一年先輩だった。広島大会は当然、これらのチームが優勝候補に挙げられた。
Bクラス的存在だった広陵は戦前の予想を覆し、自慢の打撃力と宇根の好投で、準決勝の尾道商は2―1、決勝では広島商に3―1。広島大会を制し、「甲子園切符」を手に入れた。
ただ、決勝で不運が襲った。九回の打席でスクイズを見破られ、ウエストされた球に飛びついた際、球を左人さし指に当てた。「左手がしびれた」状態で、その裏のマウンドには立てなかった。
試合後、病院に直行した。付き添った松元信義コーチ(現総監督)は甲子園での登板を考え、麻酔を使わず、指の皮を一切むかずにまめから血を抜くよう医師に依頼した。
「つめの上から注射を打たれ、あまりの痛さに失神した」。スクイズ失敗の代償は、あまりにも大きかった。甲子園までの十日間は、投球禁止令が出された。
いまにもつめがはがれそうな状態で迎えた北海(北海道)との1回戦は、三回からのリリーフで無失点。2回戦からは先発に。準決勝の和歌山商戦では再度まめがつぶれ、血染めのボールを投げ込んだほどだ。準決勝までの4試合33イニングで自責点はゼロ。決勝では習志野(千葉)に1―7で屈したが、けがをものともしない不屈の精神力から称号が付いた。
その精神力を生んだエピソードがある。広島大会2回戦で広工大付工(現広工大高)に大苦戦。試合終了後、ナイン全員で呉市の道場へ直行を命じられ、見せられたのが鋭い日本刀で大根を八つ裂きにする光景だった。
そのうえ、「刀の上を歩け」という指示が出た。ライバル広島商のお家芸の刃渡り。「確かに以後、無心で投げることができた。ただ、本当に怖かった…」
宇根は「けん制球の名手」とも呼ばれた。広島大会準決勝の尾道商戦。1点リードの八回、無死満塁でカウント0―3の大ピンチ。ここで三塁走者、一塁走者を連続で刺す芸当を見せた。
三年の六八年には春夏連続甲子園を果たし、ともにベスト8入り。「全国では180センチ近い選手ばかり。大きい選手への対抗心は、人一倍強かった」。この負けん気の強さで甲子園8勝。「小さな大投手」の光輝く勲章である。
(おわり)
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