2001/3/14
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| 佐伯 和司(広陵) (1) |
| さえき・かずし 1952年6月5日、山口県玖珂郡美和町出身。国泰寺中〜広陵高〜広島〜日本ハム〜広島。81年に引退。プロ実働11年間で88勝100敗2セーブ、防御率3・62。スカウトなどを経て現在は広島の三軍投手コーチ。右投げ右打ち。投手。広島市佐伯区在住。 |
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| 広島の三軍投手コーチとして、若手育成に情熱を注ぐ佐伯さん |
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| 高校生離れした剛速球で三振の山を築いた佐伯 |
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公式戦の被本塁打2本
今風に言うと、「ドクターK」である。佐伯は150キロ近い剛速球で、三振の山を築く。その逸材に、プロのほぼ全球団が熱い視線を送った。剛腕のうわさは太平洋を渡った。米大リーグのサンフランシスコ・ジャイアンツのスカウトも来日したほどだ。
一年秋からエースナンバーを背負い、数多くの「奪三振ショー」を演じた。登板した試合の大半が二けた奪三振。「(三振が)一けただと、気分が悪かった」と言う。一方、高校三年間の公式戦で浴びた本塁打は、わずか2本。いかに剛速球がすさまじかったか。
二年夏に初めて甲子園の土を踏み、2回戦進出。秋には中国大会を制し、三年春の選抜へ。ここで真骨頂を見せつけた。初戦(2回戦)の富山商では15奪三振。準々決勝は、大会打率1位の千葉商から12三振を奪って連続完封。ベスト4入りを果たした。
チームの四連覇がかかる三年夏の県大会。準決勝の広島工戦では、18奪三振を記録した。3季連続の甲子園と、春果たせなかった全国制覇。夢実現への最終関門は、高校野球創世期からの因縁のライバル、広島商だった。
広島商のマウンドには、幟町中出身の日高晶彦(元東映)がいる。中学時代から続くライバル同士。ここまで4試合を一人で投げ抜いてきた。「肩が上がらない状態」だった。「日高に負けるわけにはいかない」。まさに意地と意地の投げ合いを続けた。1―1の延長十回、スリーバントスクイズなどで3点を奪われ、高校時代の野球生活に終止符を打った。
歓喜に浸るライバルが視界に入る。意外にも「不思議と悔しさより、ほっとした気持ちの方が強かった」。これで「泳ぎに行ける」と思った。それが本音だった。ひたすら速い球だけを追い求めてきた剛腕が、普通の高校三年生に戻った瞬間でもあった。
一九七一年、ドラフト1位で広島に入団。七三年には、19勝をマークするなど一時代を築いた。母校への感謝の念は、いまでも胸に残る。とかくスター選手はチーム内でも特出した存在になりがちだが、「当時の植木幸典監督は他の選手と分け隔てなく、厳しく指導してくださった。今日があるのは、広陵での三年間があるから」。
無論、ライバル日高の存在も欠かせない。「彼がいたから、ここまで頑張れたし、今も頑張れる」。いまでは飲み友達という二人。青春時代の話をさかなにして、夜更けまで杯を交わしている。
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