2001/3/15
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| 川本 幸生(広島商) (2) |
| かわもと・ゆきお 1957年3月25日、広島市中区生まれ。国泰寺中〜広島商高〜修道大。リッカーに入社し、3年間プレー。86年から4年間、広島商の監督を務める。現在はタイル販売、施工会社の副社長。右投げ右打ち。内野手。同市西区在住。 |
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| 「チーム力は違っても、選手と監督時代とも日本一という目標は同じだった」と振り返る川本さん |
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| 堅守と巧打で広商野球を支えた川本(背番号4) |
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監督としても全国優勝
甲子園で春準優勝、夏優勝。小技を駆使し、ち密な「広商野球」を全国にとどろかせた一九七三年。エース佃正樹、主将の金光興二(ともに元三菱重工広島)らヒーローを挙げれば、尽きない。その一人として、二年生で二塁手だった川本を推す人も少なくない。
地味ながら、堅守で広商野球を支えた。夏決勝の静岡戦で、2点リードの六回無死二、三塁。静岡の四番水野の二遊間を抜けようかという鋭い打球をダイビングキャッチ。超美技でピンチを救った。「内角へのカーブを引っ張ると予測していた。それで、通常より二塁ベース寄りに守っていた」。鋭い読みが生んだプレーだった。
捕手のサイン、投手の投げたコース、さらに打者のスイングの始動の瞬間に、打球の方向を予測できた。「右打者でいえば、左肩の動きで判断できた」と言う。「普通の選手なら超美技の打球も、いとも簡単に処理してくれた」と、当時の畠山圭司部長も絶賛する。
スローイングの技術も、際立っていた。本人が猛練習したのが、併殺の際に多用するノーステップスロー。「目を閉じていても送球できるほど、体に染み込ませた」。読みに、捕球と送球の技術。その卓越した守備力は公式戦、練習試合を合わせて88試合で、失策はわずか1という金字塔を打ち立てた。
高校の華々しい野球生活も、「天国と地獄を味わった」。三年の七四年は選抜2回戦敗退、夏は県大会2回戦で呉港に0―1で敗れた。盈進―竹原の決勝戦は、球場の入場券切りをしていた。その大会から金属バットの使用が認可され、チームもそれに併せてバントなど小技を封印した。豪快なパワー野球への転換期だった。
しかし、卒業しても、広商野球は頭から離れることはなかった。十五年後、指揮官としてチームを率い、甲子園に戻ってきた。八八年夏の甲子園で頂点に導いた手腕は、見事というよりほかはなかった。
「金属バットの影響で、パワー野球全盛時代。うちも春の県大会まではそうだった。しかし、勝つためにはバントなどを駆使した細かい野球もいかに重要か、選手に気付かせることができた」。その時にマークした26犠打は、大会記録となった。
選手、監督として全国優勝を味わった。「細かな野球だけが広商野球ではない。その時代に対応した野球だ」。勝利へのあくなき執着心。川本こそ広商野球の申し子であることに、異論はない。
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