2001/3/16
 |
| 井神 国彦(防府商) (3) |
| いがみ・くにひこ 1956年4月17日、防府市富海生まれ。国府中〜防府商高〜専大。現在は、同市の総合商社に勤め、道路工事の安全施設管理などを担当している。右投げ右打ち。投手。同市在住。 |
 |
| 「ど真ん中なら10球中9球は、狙い通りに投げられた」と振り返る井神さん |
|
| |
 |
| 針の穴を通すような制球力で、打者を追い込んだ井神 |
|
初陣母校 準優勝に導く
一九七四年夏の甲子園で、3試合連続無四球。初出場の防府商を準優勝に導いた。「コーナーにボール一個分を出し入れできた」という抜群の制球力こそ、球速120キロ台の軟投派井神の「非凡」たる理由だった。
この夏の地方大会から、高校球界は金属バット導入で、「打高投低」への転換期を迎えた。投手受難時代とも言えたが、それに反して山口大会から好投を続けた。「ストライクが先行すれば、打者より精神的優位に立てる」。投手主導に持ち込むことが、井神流の奥義だった。明かなボール球でも、打ち急いでくれた。
甲子園初戦の2回戦で延岡(宮崎)を無四球完封。3ボールは一度もなく、2ボールを記録したのも四人だけだった。「まだ金属バット特有の反発力を、生かし切れない打者が多かった」。3回戦と準々決勝も、無四球で切り抜けた。
寡黙なエースが準決勝の鹿児島実戦で、珍しく勝ち気な一面を見せた。打者百六人目にして初の四球を与えた相手は、投手の定岡正二(元巨人)だった。長打力のない九番打者に、力んで1ストライクしか奪えなかった。「大声援を一手に浴びる甲子園のアイドルには、絶対に打たれたくなかったんだ」と、苦笑いしながら記憶を手繰った。
決勝の銚子商(千葉)戦は八回途中、6失点で降板した。夏の公式戦最多の2四球を与えた。「生命線」だった制球の乱れを、最後まで修正できなかった。
制球力は、新入部員の役回りの中で磨かれた。高校入学時は遊撃手の傍ら、フリー打撃投手として連日二百球前後を投げた。ボール球が続くと、先輩から怒鳴られた。当時の末富重信監督(64)=防府市勝間=は「その恐怖心から、ストライクばかり投げようと懸命だった」と、思わぬエース誕生の秘話を明かした。
強じんな足腰は、学校近くの山を走って鍛えた。好んでロードワークに出掛けるのには、理由があった。当時、練習中の水分補給は厳禁。「監督や先輩の目を盗み、山道にある水道で渇きをいやした」
神経質な性格だった。「メーカーによって微妙に違うボールの皮質や縫い目の高さが気になった」。授業では、同級生から「女みたいじゃ」と冷やかされるほど小さな文字でノートを埋めた。本棚は同じサイズの書籍を並べないと気が済まなかった。そうした性分は、今も変らない。
白球を自在に操った「精密機械」も、趣味のゴルフに悪戦苦闘している。競技歴は二十年近くになるが、平均スコアは100前後。「OBをよく連発するし、一向に上達しない。あんな広いフェアウエーに、止まらないのが不思議なんだよ」。高校時代には無縁だった「ノーコン病」を、恥ずかしそうに明かした。
|