2001/3/17
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| 小林 誠二(広島工) (4) |
| こばやし・せいじ 1958年1月22日、広島県比婆郡高野町生まれ。高野中〜広島工高。76年に広島入団。81〜83年は西武でプレー。84年広島に復帰し、11勝4敗9セーブ、防御率2・20で最優秀防御率賞を獲得した。プロ11年間で222試合に登板し、29勝15敗20セーブ。防御率3・70。右投げ右打ち。投手。名前は「聖始」に改名した。広島市安佐南区在住。 |
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| 「自分のボールに自信を持たなければ、打者は抑えられない」と、精神力の大切さを訴える小林さん |
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| 気迫の投球で、広島工を初の甲子園に導いた小林 |
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県予選の「挫折」が原点
「ケンコー」の名で親しまれる広島工が一九七五年春、初めて甲子園に足跡を刻んだ。原動力は、後に広島東洋カープの救援エースとして活躍する小林だった。
飛躍の第一歩は「栄光」ではなく、「挫折」だった。「野球人生の分岐点」と振り返るのは七四年夏、広島大会3回戦の広陵戦。引き分け再試合を含め、27イニングを一人で投げ抜いた。
広島工は昭和四十年代半ばから、台頭の兆しを見せた。小林は140キロ近い速球とシュートが武器に、一年秋からエースを務めた。広陵との一戦は、一進一退の展開。延長十七回、無死満塁のピンチを招いたが、「結果を恐れなかった」という気迫で切り抜けた。四時間三十五分の激闘は、延長十八回で引き分けとなった。
「気が張って、疲れも感じなかった」という再試合も、八回終了で同点。前日279球を投げ、この日も100球を超えた。心のひだに、いつの間にか弱気の虫が宿っていた。
「もう延長戦を投げる力はない」。九回、守備の乱れで、万事休すの4失点。「エラーで負けたんじゃない。強気の自分が、初めて弱気になった。それが敗因」と今でも悔む。
敗戦を機に、チームは変った。修学旅行への参加を取りやめ、猛練習を重ねた。秋の中国大会優勝で翌春の甲子園に初出場。貧打のチームをよく支え、初戦の志度商(香川)戦は8―1。2回戦の福井商(福井)には0―3で惜敗したが、「攻めの気持ちを貫いたし、悔いはない」と強調する。
中学時代は無名投手だった。生後四カ月の時、父親が死去し、母は農協勤めで生計を立てた。「手に職を付けて、母を楽にさせたい」。工業高校への進学を決意したが、野球の道を捨て切れなかった。
広島工は当時、高校球界でタブーとされた筋力トレーニングを先取りしていた。「超が付くほどまじめだった」というバンカラ球児は、黙々と体づくりを続けた。プロでは、肩痛によるフォーム改造や西武との二度のトレードなど数々の試練を乗り越えた。
生き残るために工夫や努力を続けた結晶が、魔球と呼ばれたパームボールだった。「ひじの負担が大きい球種だが、高校からの筋力トレが生きた」。八四年、抑えの守護神として広島をリーグ制覇、日本一へと導いた。
西武と広島で両リーグ初の胴上げ投手を経験し、現在は解説者としてネット裏から熱い視線を送っている。「技術ばかりに走り、打者を抑えようとする気持ちが足りない」。広島の若手投手に対する辛口批評は、広陵戦で味わった「自戒」の念から生まれている。
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