中国新聞
2001/3/18
 黒田 真二(崇徳)  (5) 
 くろだ・しんじ 1958年7月25日、広島県比婆郡東城町生まれ。東城中〜崇徳高〜日本鋼管福山〜リッカー。83年にヤクルトに入団。実働3年間で49試合に登板し、7敗2セーブ、防御率5・07。88年から12年間、打撃投手を務めた。現在は自宅を改装してスナックを経営。右投げ右打ち。投手。東京都八王子市在住。
「当時としては史上最強の高校チームだった」と、感慨にふける黒田さん  
 
バランスのいいフォームから、伸びのある球を投げ込んだ黒田  
ドラフトの悲運に泣く

 一九七六年春の選抜で初優勝を飾った崇徳は、選手の高校生離れした体格と実力から「ノンプロ集団」と呼ばれた。その秋にドラフト指名された四選手のうち、最も高い評価を受けたのがエース黒田だった。超高校級投手には、数多くの「苦難」が付きまとった。

 しなやかなフォームは、「若竹のよう」と形容された。応武篤良(全日本コーチ)が好リードした。攻撃陣も、山崎隆造(広島コーチ)小川達明(元広島)ら強打者ぞろい。選抜初出場ながら、優勝候補に挙げられた。黒田は2回戦で鉾田一(茨城)を投手戦の末に下し、決勝の小山(栃木)戦は完封で華を添えた。

 紫紺の優勝旗を持ち帰ったナインは、ファンの過剰なほどの熱狂ぶりに巻き込まれた。連日四百人近くが学校に押し掛け、練習もままならない状況だった。甘いマスクで「プリンス」と騒がれた黒田は、「着替え中の写真を撮られるわ、街を歩けばじろじろ見られた。自由に出歩けなくなった」。

 ライバル校OBを名乗る男性から、「家にトラックで突っ込むぞ」「夜道に注意しろ」と電話で脅されたことも。「野球をやめたい」。そう両親に漏らすほど、思い詰めた時期もあった。

 横綱相撲で広島大会を制して出場した夏の甲子園。3回戦の海星(長崎)戦は、「サッシー」の異名をとった酒井圭一(ヤクルトスカウト)との投手戦となった。七回、自らの打球処理ミスで決勝点を献上。3安打1失点で敗れ、「悲劇のエース」と呼ばれた。

 運命のドラフト会議は、十一月十九日にあった。相思相愛だった広島からは、1位黒田、2位山崎での指名が伝えられていた。だが、当時はシーズン下位球団から順に指名する「ウェーバー方式」。広島の二つ手前で、日本ハムが強行指名した。

 高校生トップ級の契約金にも、拒否を貫いた。近鉄3位指名を拒み、早大進学した応武は「あいつは、真っすぐな性格。声を掛けるのも、はばかられるほどショックの様子だった」。黒田自身、「あの時、すんなり広島に入団できていたら、人生が変わっていた。大人の身勝手さに腹が立った」と今も憤る。

 社会人球界に進んだ。だが、「プロで力を試したい」という気持ちを抑え切れなかった。二十四歳でヤクルトにドラフト外入団。ひじの故障もあり、実働は三年間。未勝利に終わった。引退後は打撃投手として、一昨年までプロ球界に身を置いた。

 高校時代は、直球とカーブを織り交ぜ、打者をほんろうした。スター扱いを嫌った無骨さ、絶頂期のドラフト指名拒否…。「カーブより、速球で空振り三振を奪うのが好きだった」と言うように、自分の生き方も「直球一筋」で貫いた。


Menu Back Next