2001/3/20
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| 津田 恒美(南陽工) (6) |
| つだ・つねみ 1960年8月1日、新南陽市生まれ。93年7月20日死去。和田中〜南陽工高〜協和発酵。82年にドラフト1位で広島に入団。その年に新人王に輝く。89年には最優秀救援投手に。実働10年間で286試合、49勝41敗90セーブ。右投げ右打ち、投手。
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| 最後のマウンドとなった津田。わずか9球で降板した(91年4月14日・巨人戦、広島市民球場) |
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| 78年のセンバツで初出場ながらベスト8に導いた津田 |
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常に全力 ファンを魅了
気は優しくて力持ち。相手、ペース配分などは一切無用で、1回戦であろうと一回から全力投球。自慢の快速球で常に真っ向勝負を挑む津田の姿に、多くのファンは感動を覚えた。
一年秋からエースとなった。二年夏の山口県大会周防地区予選1回戦の熊毛北戦では、完全試合を達成。全国デビューは鮮烈だった。七八年の選抜1回戦の刈谷(愛知)戦は一回に左翼へ先制3ランを運ぶと、投げても10奪三振の完投。独り舞台だった。選抜は初出場ながら、ベスト8入り。夏の甲子園も連続出場し、一躍「時の人」となった。
七八年はまさに津田フィーバーだった。南陽工〜宇部工の山口県大会決勝は、徳山市野球場が過去最高の二万人で埋まったほどだ。
和田中時代、チームは県大会にも出場できないほどだった。当時の南陽工監督、坂本昌穂さん(五六)=現鹿野高教頭=は無限の可能性に注目。「フォームは粗削りだが、速球の切れはまるでカミソリのようだった」
坂本さんは素材より、その人間性にほれ込んだ。純朴で目立つことが大嫌い。それ故に、気の優しさがあだとなることも。二年の時、試合前夜に考えすぎて睡眠不足となり、力を出し切れなかった試合もあった。「二年夏から、自分の気持ちを制御することを覚えた。プロで見せたガッツポーズも気の優しさ克服し、自らを奮い立たせる手段だったんでしょうね」と坂本さん。
純朴さを象徴するエピソードもある。甲子園での活躍から、プロ九球団と大学などから次々とスカウトが訪れた。その中から選んだのが、地元実業団の協和発酵。「実家の農業を手伝わないといけないので、近くがいい」というのが、理由だった。
広島で「炎のストッパー」と言われた男も、病には勝てなかった。九三年七月、三十二歳の若さで帰らぬ人に。死の一カ月前、坂本さんは津田の病床を訪れた。意識もうろうの中、南陽工時代の同僚の名前を発しながら、こうつぶやいた。「高校の時はしんどかった。タイヤ引きにランニング…。でも、もう一回やりたいな」
葬儀の翌日、坂本さんは光の監督として夏の県大会に臨んだ。「ピンチの時にふと空を見上げると、津田が笑ってこう言うんです。『先生、大丈夫ですよ』って」。光は怒とうの快進撃を見せ、甲子園初出場を決めた。
南陽工・津田の名は永遠に高校野球ファンの脳裏から離れることはない。そして津田も、球児たちの熱い戦いを天国から見守っている。
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