中国新聞
2001/3/21
 片岡 光宏(府中東)  (7) 
 かたおか・みつひろ 1962年3月22日、府中市生まれ。府中二中〜府中東高。80年、広島にドラフト1位で入団。5年目に野手に転向。中日〜大洋(現横浜)を経て、91年に引退。プロ実働5年間で0勝0敗、防御率10.50、打率2割4分3厘、15本塁打。右投げ右打ち。現在、宮崎市内で広島風お好み焼き店を経営。
「高校野球の3年間、そしてプロと完全燃焼できたからこそ、頑張って仕事ができている」と話す片岡さん  
 
投打の大黒柱として府中東高を初の甲子園に導いた片岡  
晴れ舞台で悪夢の惨敗

 一九七九年春。野球漫画の主人公ドカベンのニックネームで呼ばれた浪商(大阪)の香川伸行(元南海)らが話題をさらった選抜で、大粒の涙を流したのがエースで四番の片岡だった。

 府中東は六一年、私学の北川工として開校。七四年、市立に移管して校名を変え、創部十九年目でつかんだ甲子園初出場。初戦の相手は高松商(香川)。一回にいきなり先制を許し、終わってみれば12安打を浴びて0―8の完敗だった。

 散々な晴れ舞台。ベンチから引き揚げる通路で、高松商の選手から「調子が悪かったんだな」と声を掛けられた。「その瞬間、情けなくて、情けなくて」。その場にうずくまって大泣きした。

 中学卒業時、「甲子園に行き、プロになる」と口にし、友達から「大ほら吹き」と言われた。広島東洋カープに入団して夢を実現したが、「夢の甲子園」は「地獄の甲子園」だった。

 試合のことは、二十年以上たった今もほとんど記憶にない。「初球のストライクをど真ん中に決め、『わあー』とスタンドが沸いたのは覚えている」。先頭打者を2―0と追い込みながら粘られ、フルカウントから中前にはじき返された。

 その一撃でリズムが狂った。「要するに、上がっていたんでしょうね」。打ってもファウルフライ、三振、三振。「一塁ベースを踏んでいないんです」と苦笑する。

 無念の結果に終わった甲子園までの道のりは、素晴らしかった。秋の県大会では準決勝で広陵、決勝で広島商を破った崇徳を撃破。中国大会では下関商に破れたものの、準優勝した。

 甲子園の切符を手にするまで、新チームでの成績は24試合で20勝4敗。完投19、完封6。186イニングで189三振を奪う豪腕だった。打っても、5本塁打を放ち、4割4分2厘をマークした。

 「エースで四番」。まさに投打の大黒柱にふさわしい活躍だったが、ワンマンチームと呼ばれるのを嫌った。部員十五人のうち、六人までが中学時代に野球経験のない素人集団。そう言われても仕方がなかった。だが、「甲子園に出られたのは、全員が力を合わせたから」。当時の仲間とは毎年、秋のOB会で顔を合わせる。

 広島県内の強豪からの誘いに首を縦に振らず、無名校に進んで全力投球した高校時代。「ぐれて両親を泣かせた」と言う中学時代を乗り越え、人と人との出会いの大切さを学んだ三年間でもあった。

 「甲子園に出ていなかったとしても、甲子園を目指したプロセスがあったから今がある」。夢に挑んだ日々を振り返る顔は、少年のようにさわやかだった。


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