中国新聞
2001/3/24
 上田 俊治(広島工)  (10) 
 うえだ・しゅんじ 1968年10月11日、呉市二河町生まれ。昭和北中〜広島工高〜明大。91年に中国放送入社。カメラマンや事件記者などを経験し、現在は東京支社テレビ部で広告スポンサーを探し回る。右投げ右打ち。東京都江戸川区在住。
野球同様、責任感を発揮して仕事に飛び回る上田さん  
 
強気なマウンドさばきで、3季連続の甲子園出場を果たした上田  
我流フォーム「天才肌」

 打者の裏をかく投球術に加え、攻め手としても三盗を得意とする「クレバー」な球児だった。上田は広島工を一九八五年夏から三季連続の甲子園に導いた立役者である。クールな発言ばかりが表に出たが、素顔は「腕が折れても投げたい」と言い放つ熱血漢だった。

 小川成海監督(51)=現高陽東高監督=の指導で、「ケンコー」は着実に力を付けた。「打倒広島商、広陵」を掲げ、練習量は県内随一を誇った。

 二年春からエースを務めた。鼻っ柱は強かった。八五年夏の広島大会決勝は、炎天下で酸欠状態に陥った。ベンチ裏で酸素マスクを当てながら、力投した。八六年春の選抜で右手甲に打球を受けた時も激痛に耐え、平然とした顔で投げ抜いた。「敵には弱みや苦しい表情を見せたくなかった」

 八六年六月下旬、虫垂炎で緊急入院。広島大会前半は控えの高津臣吾(ヤクルト)にマウンドを譲ったが、準々決勝の尾道商戦と決勝の広島商戦で先発完投した。

 本調子に程遠いピッチングだったが、2試合とも大事な場面で三盗を決め、足でチームの勝利に貢献した。小川監督は「責任感の強い選手だった」と思い返す。

 夏の甲子園は、3回戦で浦和学院(埼玉)に1―4で敗れた。被安打4ながら、3ランとソロの2アーチに沈んだ。2回戦で優勝候補だった熊本工(熊本)を内角の直球をうまく生かして完封。「内角球を過信していたんです。二本とも外角球を使っていれば…」。今でも悔しそうな表情を浮かべる。

 中学時代は腰痛で、目立った活躍はない。「パイロットになりたい」と学業専念を誓っていた。小川監督の熱心な勧誘にほだされ、広島工への進学を決めた。

 我流で投球フォームを編み出すなど「天才肌」。二百球の投げ込みを指示されても、百球前後で切り上げた。「球数が多くても、考えながら投げないと意味がない」。要領の良さに加え、縦横の弁が立った。

 大学卒業後は「甲子園で取材を受け、あこがれた」という地元の民間放送会社に就職した。九二年夏の甲子園は、高校時代の同級生で主将だった宮川昭正監督(現大柿高監督)が率いる母校を取材した。「緊迫した場面では、OBとして手に汗握ってつい応援してしまいました」

 今年一月、東京に転勤。同じ東京で活躍する高津の存在は励みだ。ヤクルトの守護神となった今も、帰省時には当時のメンバーとゴルフや酒食を交わす。「高校時代と同じように、気兼ねなく話ができる」。白球に笑い、泣いた三年間。培った友情は、いつまでも色あせることはない。

(おわり)


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