2001/4/20
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| 川岡 孝弘(山陽) (4) |
| かわおか・たかひろ 1973年4月5日、広島市西区生まれ。観音中〜山陽高〜九州国際大〜常石鉄工。九州六大学リーグで通算34勝をマーク。明治神宮大会にも2度出場し、ベスト8進出に貢献した。現在は福山市内の鮮魚店に勤める。左投げ左打ち。投手。福山市在住。 |
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| 「野球はルールのあるケンカと思っていた」。優しい顔で一人娘を抱き上げる川岡さん |
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| 度胸満点のマウンドさばきで、夏の甲子園ベスト4に導いた川岡 |
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ケガ隠し甲子園四強へ
一九九〇年夏の広島大会は、「ミラクル山陽」の快進撃に沸いた。初の甲子園に導いたのが、二年生エース川岡だった。打者をにらみ、相手ベンチの監督までも不敵な笑みで挑発した。広島弁で言えば、「ガンボッタレ」な球児。「小さいころにひと通りの悪さをした」という経験から編み出した「ケンカ投法」と言えた。
初戦から広陵、広島商、尾道商に3試合連続で1点差勝ち。準決勝では広島工を下し、春季県大会四強を総なめにする快挙を飾った。
164センチ、63キロの小柄な体全体で躍動した。直球とカーブを織り交ぜる巧みな投球術に加え、頭部すれすれの球もおくせず投げた。「相手が怒って冷静さを失えば、自分のペース」。周囲から「悪童」と非難されても、勝負の世界ではまぎれもない「怪童」だった。
崇徳との決勝当日、寝過ごし集合時間に三十分も遅刻した。肝っ玉エースいわく、「大事な試合を前に、監督や先輩に心配や迷惑を掛けた。その分、今まで以上の投球をしたかった」。
甲子園では、前代未聞のアクシデントを引き起こした。初戦で劇的なサヨナラ勝利を飾った翌日夜、ジュースを買って帰る際、宿舎の玄関に衝突。割れたガラス片で右手人さし指を七針縫うけがをした。
負傷から二日後の3回戦は、血染めのボールを投げ込んだ。当時はひた隠しにしたが、利き腕の左手甲も3センチ近く切っていた。投球のたびに傷口が開き、流血した。「審判に気づかれたら、降板させられると思い、球に泥をまぶし投げた」。試合前日は全く投球練習できず、試合当日のウオーミングアップもわずか15球だったが、ベンチの不安をよそに1失点完投。準々決勝も懸命に投げ抜き、ベスト4進出に導いた。
野球は小学三年から始めた。上級生とのケンカが絶えない息子に、両親が「このままでは、ろくな大人にならん」と案じて勧めた。最初は嫌々ながら、いつしかのめり込んだ。「人を殴っても褒められなかったが、野球はスタンドからの歓声や拍手が気持ち良かった」
新チームでは「エース、四番、主将」。率先してナインを引っ張る「優等生」に変ぼうしたが、マウンドでは向こう意気の強い投法を貫いた。当時コーチだった鳥居原充監督(35)は「外見で誤解されやすいが、周囲の期待に懸命にこたえようとする子だった」と認める。
大学、社会人球界でも活躍。二年前に現役を退き、現在は草野球を楽しむ。マウンドの表情に、当時の厳しさはない。「野球で人生が変った」。捕手のミットを鳴らした球音は、大人への階段を上る足音だった。
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